東京府荏原郡における明治期の町村制施行時の変遷過程シリーズ第15回目となる今回は、荏原郡矢口村をとりあげる。これまでのように、まずは第一次案から見ていこう。
矢口村 = 矢口村 + 今泉村 + 道塚村 + 原村 + 安方村 + 小林村 + 蓮沼村 + 古市場村 + 下丸子村 + 鵜ノ木村飛地字沖島784~796番地
矢口村は、第一次案としては荏原郡下最大の9村合併(最終的に池上村が10村合併となったため次点となる)であり、このうち最有力村である矢口村の名を合併後の村名として採用した(仮に上・中・下丸子の各村がすべて荏原郡下にあったのなら、丸子村となっていただろう)。矢口村も荏原郡下の中ではけっして大きい村ではないが、他の8村はそれ以上に小さく、言い方は悪いが小さい村々の寄せ集めといった感が強い。このため、以前にもご紹介したが、矢口村は第一次案がそのまま最終決定となった珍しいものである。よって、第二次案は、
矢口村 = 矢口村 + 今泉村 + 道塚村 + 原村 + 安方村 + 小林村 + 蓮沼村 + 古市場村 + 下丸子村 + 鵜ノ木村飛地字沖島784~796番地
最終案は、
矢口村 = 矢口村 + 今泉村 + 道塚村 + 原村 + 安方村 + 小林村 + 蓮沼村 + 古市場村 + 下丸子村 + 鵜ノ木村飛地字沖島784~796番地
施行時は、
矢口村 = 矢口村 + 今泉村 + 道塚村 + 原村 + 安方村 + 小林村 + 蓮沼村 + 古市場村 + 下丸子村 + 鵜ノ木村飛地字沖島784~796番地
と、何一つ変わらずに進んでいったのである。他村の混乱状況に比べて、これはいかなる理由によるものだったのか。これは、やはり小さい村々を寄せ集めたためだったというのが大きいだろう。矢口村の周囲には調布村、池上村、蒲田村、そして六郷村が形成されるようになるが、どこに属しても小さい村々は主導権を取ることができず、だったら小さい村々だけで合併した方がまだましという判断が働いたとしても不思議ではない。
このようにして成立した矢口村だが、各村々は矢口村の大字としてそのまま村名が大字名に変わっただけで生き残っていく。そして、昭和7年(1932年)に東京市に編入される際も、そのまま大字名を町名としたものがほとんどで大字矢口を矢口町などとした。例外は、大字古市場を古市町と省略形としたこと。大字原のうち飛地部分(字志茂田及び字志茂田耕地)を志茂田町と字名から採用したこと。明治45年(1912年)に神奈川県との境界変更を行った際、編入した大字上平間と大字中丸子のそれぞれ一部を下河原町としたこと。以上、3点が例外だった。だが、下河原町は昭和10年(1935年)に下丸子町に併合され、わずか3年ほどで消滅。志茂田町も昭和14年(1939年)、蒲田地域の町界・地番整理によって消滅する。他の町名は戦後の住居表示まで残るが、矢口と下丸子以外はすべて消滅してしまい、今では小学校名等に残るのみである。
一方、矢口の名は東急多摩川線に矢口渡駅があり、住居表示によって矢口一丁目~三丁目が成立し、大田区の矢口特別出張所や区民センターなど、多くのところで名称が維持されている。下丸子も駅名のほか、住居表示で下丸子一丁目~四丁目など名称は残されている。そんなところで、今回はここまで。
XWIN II 様
神奈川県との境界線の変更が行われていますが、やはり多摩川の流れが洪水によりしばしば変化した結果でしょうか。上流にも下野毛と言う町名が川崎市側にありますが、随所に河跡を示すような道路が残っている様に見受けます。下丸子の光明寺池もかっての多摩川の名残だと言われていますが、有名な矢口の渡しも諸説があるようですね。洪水と言えば何年か前に狛江市で住宅が流されたことがありますので、また集中豪雨が降らないとも限りませんね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/02/20 14:58
「矢口渡」跡として多摩川大橋そばの河川敷にひっそり掲示されてます。近くの古老に言わせると、昭和30年ころまで最後の農家が川崎の田畑の耕作に向かうため船着場があった由。その位置は掲示版の位置よりやや川上だそうです。最も、古老も新田義興時代の渡しは新田神社そばだったんじゃないかな?と思ってるそうです。
投稿情報: と | 2013/03/27 19:31
コメントありがとうございます。
現在の多摩川は、河川氾濫を繰り返した結果の流路であって、中世の頃は今とはまったく異なった海岸線及び河川線だったことは間違いありません。
新田神社の裏手には自然堤防が残っており、ここが旧河川に面していたことは確かです。どこが矢口(ヤマトタケルの)だったのか、矢口渡だったのかは議論の余地はありますが、伝承が残るというのは何らかの理由もあったと思うのです。
投稿情報: XWIN II | 2013/03/28 07:45
木造院電マニアさま、みなさま
その狛江の多摩川の堤防が決壊したそばに住んでいます。たしか高校2年か3年の時でした。多摩川の流路は古い地図を見ると今とは違うのは明らかですしその証拠として、神奈川県側の河原も一部狛江市の行政地域になっています。また東京側でも狛江の付近は神奈川県に属するところがあります。小田急のすぐ上流は、神奈川県川でも狛江市の行政区域です。30年くらい前?(年代は定かではない)までは狛江市に宿河原という町名がありました。いまは駒井町ですが。。
投稿情報: デハ3300 | 2013/03/29 18:25
デハ3300様
もともと律令制度での国名は川崎市となった橘郡は、横浜市の港南区等を含む神奈川県の東側と同様に武蔵の國に
属していたので、行政区域としては明治の初め以前は同じであったせいもあるのでしょう。宿河原の駅名が南武線にもあり、古い話で恐縮ですが戦争中食料の買い出しに行った記憶があります。中学時代に先生が、多摩川も羽村の堰で大量の水道水を取り込んでいるので大きな洪水は無いだろうと言っていましたが、温暖化のせいか予測不能なゲリラ豪雨に襲われるようになりましたね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/03/30 10:26