前回、前々回と書き進めてきた中、東京府荏原郡下に存在した町村が東京市に合併される際の「変遷」について、もう少し補足をしておきたいと考えていたが、コメント欄に同様のご質問を頂戴したこともあり、今回はそのあたりについてあれこれ書いていきたい。
では、現在から過去に遡って見ていきたい。東京府荏原郡下に属していた現在の東京23区は、以下のとおりである。
- 品川区
- 目黒区
- 大田区
- 世田谷区(ただし、一部は北多摩郡に所属)
この4区は、戦後の35区→23区(一時期22区)によって成立したが、この変遷は以下のようなものであった。
- 品川区 = 品川区 + 荏原区
- 目黒区(変わらず)
- 大田区 = 大森区 + 蒲田区
- 世田谷区(変わらず)
前回記したように、戦時中の米軍機による爆撃によって大きな痛手を負った荏原区と蒲田区は近隣区と合併。目黒区と世田谷区はそのままだった。なお、1936年(昭和11年)に世田谷区は北多摩郡の一部(砧村、千歳村)を編入している。この時期の編入も、大東京市成立の際のごたごたがここまで引っ張られたという見方もできる。
そして、荏原郡が東京市に編入される際の異動はこのように行われた。
- 品川区 = 品川町 + 大崎町 + 大井町
- 荏原区 = 荏原町
- 目黒区 = 目黒町 + 碑衾町
- 大森区 = 大森町 + 入新井町 + 馬込町 + 池上町 + 東調布町
- 蒲田区 = 蒲田町 + 羽田町 + 六郷町 + 矢口町
- 世田ヶ谷区 = 世田ヶ谷町 + 駒澤町 + 玉川村 + 松澤村
世田ヶ谷区としたのは、当時の資料では「世田ヶ谷区」表記が多かったからで、いつから「世田谷区」となったかははっきりしない。間違いなくいえることは、1923年(大正12年)4月1日に世田ヶ谷村から世田ヶ谷町へと町制施行された際には「世田ヶ谷町」であったことだ。ただ、東京市合併時に「世田ヶ谷区」だったかは…。資料を探せていないので何だが、当時の写真資料に新20区の区役所の表札を墨書きしているものがあり、ここにどのように記載されているかが確認できれば「世田ヶ谷区」か「世田谷区」かははっきりするだろう。このあたりの記憶が曖昧なのは、加齢に伴うものと認めたくないものだが…(苦笑)。
と、それはともかく1932年(昭和7年)10月1日に成立した新20区のうち、荏原郡に属する町村は上記のとおりとなった。だが、それを遡ること約5か月前の1932年(昭和7年)4月26日、東京市から東京府へと提出(内申)された市域拡張案では以下のようになっていた。
- 品川区 = 品川町 + 大崎町 + 大井町
- 荏原区 = 荏原町 + 馬込町
- 目黒区 = 目黒町 + 碑衾町
- 大森区 = 大森町 + 入新井町 + 羽田町
- 蒲田区 = 蒲田町 + 池上町 + 東調布町 + 矢口町 + 六郷町
- 世田ヶ谷区 = 世田ヶ谷町 + 駒澤町 + 玉川村 + 松澤村
品川区、目黒区、世田谷区(世田ヶ谷区)は変わらないが、残る半分の荏原区、大森区、蒲田区は大きな異動が見られる(色を変えておいた)。前回、前々回に示した「大東京完成記念発行 主婦之友九月号附録」の図面どおりといえるだろう。図は曖昧だとしたが、これを見ればむしろ正確に表現されているとなる。
今回、荏原区の成り立ちについて確認するために調べてみたわけだが、驚いたことに大森区と蒲田区についてそれ以上の異動があることがわかった。最終的に両区は合併して大田区となるので、今から見ればどちらに所属しようと結果は変わらないとなるのだが、このあたりは近いうちに探っていきたいと考えている。
さて、荏原区である。荏原町と馬込町との合併について、妥当性があるか否かは立場によって大きく異なる。馬込町のいわゆる千束地域(今日の大田区北千束及び南千束の大半に上池台一丁目の一部。上図においては馬込町のうち左斜め上に突出した三角エリア)は、域内に目黒蒲田電鉄大岡山駅と洗足公園駅(現 北千束駅)、そして池上電鉄長原駅を擁し鉄道が縦横無尽と走っていたのに対し、馬込本村(千束地域以外)は域内に貨物線(現在のJR横須賀線)が貫くだけで駅もなく、都市化の差は歴然としていた。また、各鉄道線のつながりを見ればその多くが荏原町と接続しているため、馬込町としての一体性よりも荏原町との関係の方が近年著しく増大しているとなっていた。さらに当時の人口比較すると、
荏原町……132,108人
馬込町……23,025人
であり、1区を編成する基準の14~20万人程度という基準も満たすことになる。しかし、馬込本村側からすれば、荏原町と接続するのは北部(現在の大田区北馬込)のみであり、町(村)中心である現在の南馬込や西馬込あたりからすれば、まったく無縁といってよかった。しかも、馬込町2万3千人の人口も過半以上を千束地域が占めるとなれば、荏原町と馬込町が合併した荏原区では人口比で10分の1にもならない。新興住民と旧住民の対立する構図は今も昔も変わらないので、あとは大義名分をどちらが握り、有力者(権力者)をどれだけ味方に引き入れるかがすべてといっていい。その結果が荏原区が荏原町単独で成立したこと、大森区と蒲田区の異動が多数行われたこと、となるのである。
といったところで、今回はここまで。
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