東京府荏原郡における明治期の町村制施行時の変遷過程シリーズ第8回目となる今回は、入新井村をとりあげる。これまでのように、まずは第一次案から見ていこう。
新井宿村 = 新井宿村 + 不入斗村
第一次案では、新井宿村と不入斗村の二村合併で、有力な新井宿の名前を村名として採用していた。荏原郡下の他町村と同様に、第一次案では有力な村名をそのまま採用する傾向が高く、これが気に入らない場合はまったく別の名前を採用するか、あるいは合成するなどした名前を採用するかとなるが、新井宿村のケースはそうはならなかった。第二次案では、新井宿村は消滅し、新井宿村は池上村へ編入、不入斗村は大森村へと編入されることとなったからである。
第二次案では消滅
だが、すぐに地元は巻き返しを図り、最終案の段階では再び二村合併に戻った。ただし、
入新井村 = 新井宿村 + 不入斗村
のように、合併後の村名は不入斗の「入」に新井宿の「新井」を合成して「入新井」村とした。そして、施行時においても、
入新井村 = 新井宿村 + 不入斗村
そのまま二村合併で、入新井村という名称を採用することとなったのである。このように、入新井という名は明治22年(1889年)に誕生した新しい名であった。被合併村の新井宿村と不入斗村はそれぞれ入新井村の大字となって、東京市に編入される昭和7年(1932年)まで存続する。だが、東京市大森区としての町名に新井宿は、大字新井宿の大半を新井宿一丁目から七丁目として継承されるが、もう一方の不入斗は、大字不入斗だったところは入新井一丁目から六丁目となって消滅してしまう。やはり、名前が不入斗というのがよくなかったとなるのだろうか。
しかし、大森区成立時に生き残った新井宿も入新井も住居表示の洗礼を受け、どちらも消滅する。新井宿は山王と中央によって、入新井は大森(大森北)によって、である。消滅時にはどちらも歴史と伝統のある名前だと言っていたが、新井宿と入新井では歴史の長さが異なる。新井宿は江戸期よりも昔からなので軽く数百年の歴史を持つが、入新井は明治22年(1889年)に誕生し、昭和39年(1964年)に消滅したので通算75年の歴史しかない。75年でも長いと言えなくもないが、所詮はどれだけ土地の人達にとって馴染んでいるかどうかの問題でしかないのだ。
といったところで、今回はここまで。
入新井という名前には違和感が在りましたが、やはり大田区と同様の合成語でしたか。正直の所消滅してもあまり寂寞感はありません。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/02/03 15:18