今回は、1889年(明治22年)に実施された市制町村制で、東京府荏原郡に属した村々がどのような過程で合併し、のちの東京市編入まで存続した町村となったかを見ていきたい。1932年(昭和7年)の東京市編入の際、どの組み合わせで区を形成するかでも揉めに揉めたわけだが、その町村ももとをただせば村々が合併してできた複合町村(一部に単独村起立あり)であって、旧村は新町村の大字としてそのほとんどが残されていた。まずはじめに、合併後の町村名の変遷について第一次案から施行時までの4つの変遷から眺めてみよう。
第一次案 | 第二次案 | 最終案 | 施行時 |
南品川町 | → | → | 品川町 |
大井村 | → | → | → |
大崎村 | → | → | → |
戸越村 | 平塚村 | → | → |
目黒村 | → | → | → |
衾碑文谷村 | → | 碑衾村 | → |
大森村 | → | → | → |
新井宿村 | <消滅> | 入新井村 | → |
池上村 | → | → | → |
馬込村 | → | → | → |
沼部村 | 調布村 | → | → |
蒲田村 | → | → | → |
羽田村 | → | → | → |
八幡塚村 | 六郷村 | → | → |
矢口村 | → | → | → |
世田ヶ谷村 | → | → | → |
代田村 | <消滅> | ─ | ─ |
北澤村 | → | <消滅> | 松澤村 |
馬引澤村 | 駒澤村 | → | → |
等々力村 | 玉川村 | → | → |
瀬田村 | <消滅> | ─ | ─ |
ちなみに第一次案とは、1888年(明治21年)10月20日に東京府(荏原郡)から各戸長役場の戸長宛てに出された諮問(案)で、これがすべての始まりといっていいものである。新町村がどのような村の組み合わせかは示さず、単に町村名の異動だけを記載したのは、組み合わせの異動が大きく煩雑になってしまうのを防ぐためであとで示すこととしたい。第一次案から施行時までの間、町村名の異動があったものは品川町をはじめ、9町村におよぶ。荏原郡の新町村は19を数えることになるが、約半数が大事な町村名の変更となったのはそれだけ「思い入れ」が深いだけでなく、複数村の合併がいかに難しいかを示すものといえるだろう。
続いて第二次案とは、同じく1888年(明治21年)10月31日(一部はこの日以降)に町村会宛てに出された諮問(案)である。既に戸長宛ての諮問を経た後でのもので、早くも第一次案から異動が見られる。列挙すると、
- 戸越村を平塚村へ改称。
- 新井宿村が消滅。これを構成していた村は大森村と池上村へ編入。
- 沼部村を調布村へ改称。
- 八幡塚村を六郷村へ改称。
- 代田村が消滅。これを構成していた村は世田ヶ谷村と北澤村へ編入。
- 馬引澤村を駒澤村へ改称。
- 等々力村と瀬田村を合併し玉川村と改称。
構成する村々の変更を抜きにしてもこれだけの異動があった。特に注目されるのは村名改称で、被合併村のうち有力な村名を合併後のものとしていたものが、第二次案では5つが従来の村名とまったく関係のないものとなった。平塚村の平塚は、一地域の旧名だったものを採用。調布村の調布は、古代の多摩川に由来する古式床しい名を採用。六郷村の六郷は、この辺り一帯を指す通称名から採用。駒澤村の駒澤は、馬引澤では古くさいので馬に因んで駒澤として採用。玉川村の玉川は、村内を流れる川名(美称名)より採用。村の連合体として新たな名前を様々な理由から採用したが、興味深いことに今もそれらは住所地名として引き継がれている。
そして最終案は、1888年(明治21年)12月28日に各諮問を経て府知事が裁定したものを内務大臣へ上申したものである。東京府としては、この最終案で確定としたいと位置づけられたものだが、第二次案からの異動もそれなりにあった。列挙すると、
- 衾碑文谷村を碑衾村へ改称。
- 消滅した新井宿村を復活させ入新井村として改称・起立。
- 北澤村が消滅。これを構成していた村は世田ヶ谷村へ編入。
衾碑文谷村は、その名のごとく衾村と碑文谷村を合併させるもので、この組み合わせは第一次案からまったく変わっていなかった。だが、村名が長いとか語呂が悪いとか、その手の理由で碑衾村と改称された。衾碑村としなかった理由は不明。そして大森村と池上村へ引き裂かれるように消滅した新井宿村は、名称を入新井村と変え、同じ不入斗村と新井宿村の組み合わせで復活した。三つ目の北澤村消滅は、拡大する世田ヶ谷村に取り込まれたことになる。しかし、北澤村消滅の反発は大きかったようで、赤堤村、松原村、上北沢村は世田ヶ谷村からの分離独立を訴え、これに東京府が折れる格好となり、この3村で一村を構成するよう内務大臣に追申された。
で、最後の最後は施行。内務大臣の決定は、明治22年(1889年)4月6日に東京府知事への指令として出され、同年同月11日に府知事から発布された。これで確定である。この土壇場で異動があったものは、
- 南品川町を品川町へ改称。
- 世田ヶ谷村から赤堤村、松原村、上北澤村を分離し、松澤村を起立。
であり、特に品川町への名称変更が際立つ。これは単に名称変更だけではなく、東京市内に編入される予定だった北品川宿の大半や品川歩行新宿などが荏原郡に編入されることとなり、南品川宿を中心に構成していた南品川町に加えられたことで、南北品川宿で構成されるために品川町となったのであった。
以上、変遷過程を合併後町村名の異動を中心にたどってみた。この名称だけでも異動が多いが、各町村を構成する村々の異動を眺めればこんなものではない。次回以降、これらについて順次ふれていきたいとしつつ、今回はここまで。
荏原郡がこのような複雑な経緯で変更されて行ったことは知りませんでした。次回を楽しみにしています。イメージを重んずるのは今も昔も変わりませんが、松沢などは古い名前ですが、例の問題で住民の強い意向で電話局を除いて全く抹殺されています。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/01/22 12:03
恥ずかしながら、このシリーズ、今まで気が付きませんでした。
これまた勉強になります。
私は当面現品川区部分を中心にみておりますが、品川、大井、大崎、平塚でいくと、明治22年改正でそれまでの町村が分割されたのは、
①芝区白金猿町の一部(旧品川台町部分)を大崎村へ編入、
②荏原郡白金村の一部(字長者丸、増上寺下屋敷)を荏原郡大崎村に残し、その他は芝区へ編入、
③荏原郡谷山村の飛地の一部(字平滝)を平塚村へ、その他は大崎村へ編入、
④荏原郡北品川宿の一部(目黒川南西、鉄道・碑文谷道北)を大崎村へ編入、その他は品川町、
の4カ所で、残りは全て旧町村がそのまま大字となっているかと思います。
③は飛地の一部解消ですね。
④は理由が分からなかったのですが、記事を拝見して理解が進みました。北品川宿側は異論を唱えなかったのでしょうか?(このあたりは耕地ばかりで人家がなかったのかもしれません)
①は「品川台町」の変遷を解析する必要がありますが、「品川台町」は、元は北品川宿の枝郷だったところで、明治期以降も明治11年に芝区に位置付けられ、明治12年に白金猿町に合併されるまでは、基本的に「郡部」として位置付けられていたようです。
問題は、②で、字長者丸、増上寺下屋敷以外は全て芝区(市部)へ位置付けられた理由を勉強していきたいと思います。ご案内のように明治11年に区部と郡部が整理され、翌年の明治12年にすぐさま白金村の大合併(荏原郡の白金村、今里村、芝区の白金上三光町、白金下三光町、白金錦町が合併し、「白金村」として荏原郡に位置付け)があり区部と郡部の線引きが修正され、さらに、明治22年の市部(区部)と郡部の再見直しとなっているので、複雑そうです。
何かヒントや御指摘があればぜひご教示ください
投稿情報: 地番マニア | 2014/06/12 04:59
コメントありがとうございます。
時間があればこのあたりの分析も行っていきたいところですが、事実上手つかず状態です。
さて、江戸から東京となって明治22年の市制町村制までの20年ほどの間に、どのような変遷が行われたのか。最上位レベルでは天領の廃止、上位レベルでは廃藩置県、中位レベルでは市郡間異動、下位レベルでは町村間異動(飛地解消も含む)が複雑怪奇に入り交じって、なかなか分析視角が定まりません(というよりは下手に定めない方がいいと見ます)。
お尋ねの荏原郡絡みの異動については、市域拡張と江戸期における朱引き内外との綱引きが大きいですね。警察権力との兼ね合いも当然見ていかねばなりません。
投稿情報: XWIN II | 2014/06/15 09:04
地図マニア様
4.の北品川宿の一部大崎村への編入が先日このブログで取り上げた郵便番号の問題と関係があると解釈しました。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2014/06/15 16:00