東京で中根橋というと、板橋区の中根橋(石神井川に架かる橋。小学校名や交差点名にも使用)が知られるところだが、目黒区にも中根橋がある。
しかし、こちらは既に暗渠(緑道)化された呑川に架かっているため、橋の欄干に気付かなければ橋だとわかりにくい。
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ゼンリンの電子地図で示せば明らかなように、目黒通りと呑川緑道の交叉する箇所にある。
橋には「昭和十三年九月竣功」とあり、戦前にできたものだとわかる。昭和13年(1938年)といえば、この目黒通りがまさに拡幅工事されたばかりの時期であり、これは戦前の航空(空中)写真からも読み取ることができる。
まずは昭和11年(1936年)撮影のもので、赤い○で示した部分が中根橋にあたるところだが、まだ目黒通り(当時はこの名ではなく、しかも途中で途切れている)が拡幅前にあり、現在は旧道扱いとなっている八雲小学校(写真左下)の南側を通る曲がった道が目黒通りにあたるものであった。この頃は、呑川も緑道・暗渠にはなっていないこともわかるだろう。
こちらは昭和19年(1944年)撮影のもので、昭和11年撮影のものよりも高高度からの撮影により、ややボケ気味となっているが、肝心なところははっきりとわかる。この時点においては道路は拡幅され、昭和十三年九月竣工とある橋も完成して供用されていたはずである。だが、目黒通りとしての完成はまだまだで、写真で確認できるように東横線とクロスするあたりは未完成である。この部分は戦後の東横線高架化工事の際、東横線の上を通っていた旧道(目黒通り)を東横線の下を通すという、まさに同時施工でなければ至難の工事であった。
ちなみに中根橋の名は、このあたりの中根という地名に由来する。「根」と付く名はこの一帯で中根の他に、東根、谷畑根、平根とあり、目黒区の公式などでは「根」を地形説からとっているが、「根柄」(部落、集落としての意味合い)の方が適切。理由は、江戸期以前の衾村の集落のあった4地区すべてに「根」が付いていたからだ。無論、「根柄」が地形の「根」から転じた可能性までは否定しないが、由来を遡りすぎだろう。なお、4つの「根」のうち、東根は東が丘として東が残り、平根は平町として平が残ったものの、谷畑根は谷畑は東京市に合併され目黒区となった際、すべて消滅(谷畑は、今日の自由が丘、緑が丘に相当)。完全な形で残ったのは中根だけとなっている。
といったところで、今回はここまで。
東横線を跨ぐ旧目黒通りの目黒方面への坂道はかなり急であったことを憶えて言います。牛や馬が荷車を牽く光景が見られた時代でしたが馬方は急勾配に苦労していたようです。東横線開通当時は平面交差であったようですので急激に交通量が増えたのでしょう。上げたり下げたり苦労の多い交差点ですね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/07/22 21:35