今回はこれ。
江戸・東京文庫シリーズは定評あるシリーズであるものの、購入したのは今回が初めて。初版から約10年を経ての改訂版(第二刷、改版)が出たばかりということで購入した。
定評あるだけあって、地域歴史本にしては誤りが少ない方だと感じたが、やはり見つけてしまった。本書131ページである。
131ページ
また「二葉」の地名は、昭和7年の品川区制施行時に付けられた新しいもの。もともと江戸時代は上蛇窪村と下蛇窪村の2カ村で、合併する以前は上神明町と下神明町の2カ町だったが、旧上下村がともに発展するよう、「二葉」と名付けられた。
これは致命的誤りの一つ。
「二葉」の地名は、昭和16年の町名改正によって新たに「二葉町」と命名されたもので、しかも品川区ではなく荏原区である(現在は品川区であるが)。ついでに細かいことを言えば、区制施行ではなく市制施行(東京市に併合)が正しく、市制の中の区である(現行の特別区でもない)。また、昭和7年の東京市荏原区成立時に、従来の荏原郡荏原町大字上蛇窪が上神明町、同郡同町大字下蛇窪が下神明町となり、この両町が昭和16年に二葉町のほか、豊町、東戸越の各一部となった。また、「二葉」自体も上下の二つなどではなく、東京市が町名案と示した複数の案から単に豊町とあわせて選ばれたに過ぎない。
つまり、本書がどの文献からこの話を持ち出したか定かでないが、かなりトンデモな由来も含めて致命傷だと指摘しておく。
また、同じく131ページには次のような説明がある。
131ページ
西大井6丁目には幕末・維新から明治にかけての政治家で、初代の内閣総理大臣に就任した伊藤博文の墓所がある。江戸時代、この地は谷垂、篠谷などとよばれていた村落で、やはり昭和7年の区制施行時に、伊藤公墓所にちなんで「大井伊藤町」と改称された。ここから少し離れているが、豊町3丁目には、下蛇窪村の名主を代々つとめた旧家「伊藤家」の邸宅がいまもある。伊藤家は下蛇窪村だけにとどまらず、この辺り一帯に長く根付いてきた名家だけに、「大井伊藤町」の町名もこれにちなんだもの、とする説がある。
大井伊藤町の由来だが、旧家「伊藤家」説とやらを持ち出すのは失笑レベルとなる。もともと昭和7年の東京市合併時の町名案では、旧大井町に属する新町名はすべて「大井○○町」形式(○○には字名が1~3文字で入る)であって、ぎりぎりまで字名を採用した「大井谷垂町」と「大井篠谷町」となっていた。ところが、地元から大井町議会や東京市議会などに対して陳状が出され、その主訴は伊藤博文公の墓所所在地に因み、大井伊藤町としてほしい旨の内容だった(無論、建前とは別に本音では「谷」と付く町名を避けたいという意向も働いていた)。これにより急遽、町名案が覆され「大井谷垂町」と「大井篠谷町」は合わせて「大井伊藤町」となったのである。このような経緯を知れば、どこから持ってきたかわからない怪しげな説を持ち出すまでもあるまい。(ついでにいえば、旧伊藤家は荏原郡荏原町(東京市荏原区の一部)に属し、大井伊藤町一帯は荏原郡大井町(東京市品川区の一部)に属しており、両者は東京市町名策定ルールすら異なっていた。)
このほかにも、和中散を和散中としてみたり、平治の乱を1159年としてみたり(正しくは1160年)、久が原をかつては馬込領といってみたり(正しくは馬込領と六郷領と二つあった)、などなど細かい気になるところはあるが、このジャンルの書籍としては誤りは少ない方だと感ずる(歴史記述に弱いという印象はあるが)。といったところで、今回はここまで。
大井伊藤町のことで旧家伊藤家云々は大勲位伊藤公に対して失礼ではないか思います。近くに同公の住まいもあったようですが。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/07/22 21:38