今回は、池上電気鉄道の初期の歴史で、ほとんど顧みられることのない支線計画を採り上げる。前回の年表中に1918年4月18日の「支線、目黒~不動前~五反田~二本榎間軽便鉄道敷設特許申請」とあるのがそれで、これは東急50年史巻末の年表に掲載されているものだが、この計画図面(部分)から見ていこう。
本来なら比較として、現在の東急目黒線や東急池上線を載せるべきかとも考えたが、線が多くなって見にくくなりそうだったことから、図中の計画線や既存線に色を付けるにとどめた。黄緑色は現在のJR山手線にあたり、図中上の方が目黒駅、下の方が五反田駅となっている。黒く塗りつぶされているのは市街地表記なので、目黒駅周辺よりも五反田駅周辺の方が発展していることがわかるが、これは明治末期より大崎駅付近(図の範囲外だが右下あたり)の目黒川沿いに工場が進出し、発展したことが大きい。また、地形的制約もあるだろうか。
そして、桃色が池上電気鉄道初期計画の本線にあたるもので、現在の東急目黒線よりもやや北寄り(図では上寄り)に位置する。起点(終点)は、現在の東京都品川区上大崎三丁目27番あたり。現在の目黒雅叙園と杉野服飾大学の境目あたりをくねくね曲がりながら坂を下り、目黒不動尊(龍泉寺)門前付近に目黒不動前駅(停車場)を予定し、そこから大森駅までが本線だった。その目黒不動前から橙色の線が山手線方向に伸び、これもくねくね曲がりながら山手線を越え、東京市ぎりぎりのあたりを終点としたのが、今回採り上げる支線である。
この支線は、目黒不動前~桐ヶ谷(のちの池上電気鉄道の桐ヶ谷駅とはまったく場所が異なる別のもの)~霞ヶ崎~下大崎と分岐駅を含めて4駅であり、東急50年史巻末の年表にいう「目黒~不動前~五反田~二本榎」とはならない。この計画図でも「目黒不動前~下大崎計画線」といっており、東急50年史がなぜ「目黒~不動前~五反田~二本榎」としたのかは経緯は不明だが、計画図を見る限り適切でないと感ずる。
また、興味深い点として五反田駅付近を通過するものの、五反田駅に近い駅(停車場)は霞ヶ崎であり、五反田駅からやや離れたところに予定された。この場所は、当時の大崎町役場のすぐそばであるので、そのあたりのことも考慮に入っていた可能性もあるが、目黒駅とは異なり、あえて五反田駅を外した理由はわからない。
上は五反田駅付近を拡大したものであるが、現在の東急池上線と同様にこの場所で山手線を越えるとなると、かなり高い場所に高架線(橋)を作らなければならない。地図上に線を引くだけなら造作もないが、いざ山手線を越えるとなると相当な困難があったはずで、これがどういう経緯で支線として登場したのか、背景も含めて何一つ調査できていない。この支線計画は、目黒~大森間の工事施行認可を受けてから1か月ほどで提出されたことを踏まえれば、目黒を起点(終点)とするだけでは難があったと考えたくなるが果たして実際はどうだったのか…。
なかなか疑問ばかりで先に進めないと感じつつ、今回はここまで。
昔の白金猿町付近を起点として市街化された地域を避けて池田山の麓に沿って計画されていますが、市電の終点が猿町にあった関係でしょうか。等高線に沿って計画されていますがかなりの勾配は避けられないでしょう。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/06/22 20:01
コメントありがとうございます。
市電(五反田線)については、清正公前から白金猿町までの分岐線が昭和2年(1927年)開業なので、この計画線が登場した頃は、五反田線の計画すらあったかどうかは…。なので、単に東京市内に入らないぎりぎりで止めたと見るべきかな、と。
そして、袖ヶ崎への急勾配は呑川~石川台付近に匹敵しますから、まぁ余程の土木工事を施工しない限り、当時の軽便鉄道クラスの単車が坂を登り切るのは難しいかと。市電が五反田駅前まで来るのは昭和8年(1933年)、現在の桜田通りができて勾配が小さくなってからですので。
私が思うのは、この計画(無謀で無意味)がなぜ出てきたのか、ということに尽きます。調査不足のため、ほとんど何もわかりませんが、推測であればあれこれあるものの、まだ自分レベルでも「それはないだろう」的なものでしかありません。
投稿情報: XWIN II | 2012/06/23 20:14
XWIN様
コメント有り難う御座います、東京市内への免許に対して市当局が圧力を掛けることは容易に像蔵で来ます。池上電鉄の草軽電鉄やダージリン鉄道の様なカーブの多い路線の免許申請は此の地区に限ったことではなく、以前に取り上げられた目黒線でも見られますので、素人の集まりであると言う謗りは免れませんね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/06/23 21:06