本来なら「大正中期、逓信省地図(荏原郡平塚村)における洗足田園都市エリア」の記事として含める予定だった(タイトルもあっさり「大正中期、逓信省地図における洗足田園都市エリア」とする予定だった)が、時間がなかったため二回に分けた次第。というわけで、洗足田園都市エリアの半分近くを占める荏原郡碑衾村の逓信省地図に洗足田園都市エリアを示した図を以下に示す。
実は──時間がかかったのは、碑衾村エリアを特定しにくかった(というかできなかった)ことによる。前回の平塚村エリアは耕地整理前の道路がそれなりに現在まで生き残っているので、特定しやすかったのだが、こちら碑衾村エリアは最初から躓いた。それはどこか。答えは平塚村との境を跨ぐ道路(上図では右やや上の「字池ノ谷」の池の字右から横に通ずる道路。1431番地と1432番地間を通る)を洗足田園都市エリアの北限とならなければならないのに、これを採用してしまうとかなり北寄りとなってしまい、図中に示される家屋(地番エリアが白=色が塗られていない)の場所からあり得ない選択となってしまう。かといって、平塚村側を見ればこの道路を北限とするのが妥当であり、碑衾村側とかみ合わない。この理由を熟考しているうちに昨日は時間を要してしまい、今日にずれ込んだというわけである(苦笑)。
とはいえ、江戸期由来の地図作成手法を色濃く受け継ぐ逓信省地図なので、若干のずれはあるだろうと逃げをうって、この図だけで妥当性を求めた結果を示すこととした。
さて、本図を見ても確認できるようにこのエリアでも家屋(上物)は一つもない。平塚村と異なるのは、平塚村はすべて田畑表記だったものが、こちらは森林表記のものも含まれている点である。明治中期に作成された地図では字南原あたりは「荒地」と記載されてもいるので、まぁそういうことなのだろう。伊達に4村境界(明治中期における中延村、小山村、碑文谷村、馬込村千束)ではないのだ。
といったところで、今回はここまで。次回は、ここまでやったので残る馬込村についてエリア確認をする予定。
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