今年(2012年)は、東急電鉄のお知らせ「池上線開業90周年キャンペーンを開催中!」にもあるように、前身の池上電気鉄道(池上電気鉄道は目黒蒲田電鉄に合併され、その目黒蒲田電鉄は東京横浜電鉄を合併後、二週間ほどで東京横浜電鉄を改めて名乗り、京浜急行電鉄及び小田原急行電鉄を合併時に東京急行電鉄を名乗った)が支線である池上~蒲田間を1922年(大正11年)10月6日金曜日に開業してから、90周年となる記念すべき年となる。そこで、当blogでも池上電気鉄道ネタを多く採り上げている関係から、ちょうど90周年となる10月6日までに(あるいは前後までに)「池上電気鉄道の興亡」と称したテーマで話題をおおくりしていきたいと考えている。
そこで最初となる今回は、池上電気鉄道の歴史を掴みで簡単に眺めていく。
とはいっても、池上電気鉄道の歴史は以上に示したように最も長く解釈しても足かけ22年程度に過ぎず、法人組織としての池上電気鉄道株式会社としては約17年、実際に鉄道会社として旅客営業を始めてからは約12年、五反田~蒲田間が全通してからは約6年、全通後目黒蒲田電鉄の統制下に入るまでとすれば約5年程度の大変短い歴史でしかない。しかも約22年の歴史のうち、最初の10年は株式会社を立ち上げるまでと実際に工事着工するまでに占められ、貴族院議員でもあった高柳淳之助が社長となる1922年(大正11年)4月20日以降までほとんど動きがなかったとしても言い過ぎではない(起工式は形だけだったため)。
また、年表には記していないが、池上電気鉄道には代表取締役社長が存在していない時期が二期存在している。最初は1917年(大正6年)11月13日から1921年(大正10年)6月20日までの約3年半で、初代社長であった山口文右衛門が会社発足後5か月足らずで辞任し、二代目社長となる芳川寛治伯爵が就任するまでの間、専務の八木恒蔵が事実上の代表を務めた。この八木恒蔵がどういう人物なのかは不明だが、池上電気鉄道株式会社創立発起人の一人である八木恒三郎という人物の子息ではないかと見込まれる(根拠無し。単に「八木恒」まで同じという判断)。そしてもう一期が会社としての最終盤となる1932年(昭和7年)5月27日から1934年(昭和9年)10月1日までの期間で、第5代社長中島久万吉が商工大臣に就任することで職を辞し、代表権を得た専務の後藤国彦が社長とならず専務のままとどまり、目黒蒲田電鉄の統制下に入って五島慶太に専務の座を奪われてからも社長は置かず、そのまま吸収合併された。
状況の違いがあるとは言え、社長の座が空位であるのは次の理由によると見る。まず、どちらも社内実力者(八木及び後藤)が若いということ、そして社会的地位が今ひとつであること、そして外部から招聘するなり手がいないこと、と考える。最初の社長不在期間は、信用不明ではあるがおそらく創立発起人の子息である社内実力者八木恒蔵が経済不況の荒波の中、代表取締役社長たる人物を探す時期に相当し、事実上金策にあたっていた時期と符牒が合う。そしてようやく伯爵という肩書きを持つ人物に社長となってもらうのだが、肝心の金策ではあまり役立たなかったようで10か月で社長を辞任。そして、金策のできる人物として高柳淳之介が社長となった。一方、最終盤では川崎財閥の金庫番ともいわれ、京成電気軌道の経営も行っていた後藤国彦は、社長になることもできたのかもしれないが、中島社長辞任後わずか1年程度で目黒蒲田電鉄に経営権を奪われる格好となったため、結果として社長空位期間が長くなったといえる。
こうして簡単な年表だけを眺めていても、実にわずかな命脈しか持たなかった池上電気鉄道株式会社。しかし、この会社の興亡が間違いなく目黒蒲田電鉄の誕生を促し、大東急を誕生せしめる由来となったことは確かだろう。今まで勝者の視点から見た歴史は、正史ともいえる「東京横浜電鉄沿革史」や「東京急行電鉄50年史」に敗者の歴史として語られることはあっても、池上電気鉄道株式会社としての自立した歴史的視点で語られることはほとんどなかった。もちろん、歴史家や歴史学者でない私なので、歴史を書く文法というものは持ち合わせていない。しかし、どんなに拙いものであったとしても、将来それを継ぐ素晴らしいものが出てくるだろうと期待を抱きながら、散発的に当blog内に記事としてあげていこうと思っている。そんな決意表明(苦笑)をしつつ、今回はここまで。
大変興味深いシリーズとなりそうで、今からワクワクしています。
東急池上線については、わからないことがいっぱいありそうです。
例えば、ここで取り上げていただけるまで、「高圧鉄塔はいつできたのか?」もわかりませんでした。
これからの記事を、期待しております!!
投稿情報: りっこ | 2012/05/13 10:22
時系列としてみれば高柳氏の在任期間はわずか3年であるところを見ると思いのほか短期間であったことが分かります。川崎第百銀行は後に三菱銀行と合併しますが、電鉄事業にはあまり関心が無かったのでしょうか。次回のブログが楽しみです。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/05/13 14:57