一昨日は花見と洒落込んでみたが、散策と称した以上、東工大近辺だけでは面白くないので、多少足を伸ばして田園調布付近の散策を愉しんだ。
田園調布といえば、かつて西口にあった「あの駅舎」となるが、今はもちろん単なるレプリカ。近づいてみればがっかりの張りぼてのもの。かつての駅舎を知るものとしてそう思えるのだから、地元の方々はどうお思いだろう。形だけでも残ってよかったとするのか、それとも東急電鉄の仕打ちに嘆くのか…。まぁ、観光客っぽい人達はそんなことお構いなしではあるのだろうが。
西口駅舎すぐ近くには、あの田園調布会の建物がある。よくある町会会館のようなもの、といってしまえばそれまでだが、社団法人田園調布会は田園都市の伝統を今に引き継ぐ、由緒ある自治会(町会)なのだ。
銘板も「社団法人 田園調布会」と派手ではないが目立つ位置に掲げられている。田園調布会は、田園都市株式会社が分譲したエリアをほとんど範囲としているのだ(世田谷区にある部分が含まれていないほか、分譲エリア外であるところをごく一部含む)。
田園調布西口といえば、三本の放射状道路に植えられた銀杏並木であるが、さすがにこの季節はこのようにほとんど葉が見られない。ただし、近づいてみれば新芽が出てきており、春だなぁといった感じ。
放射状道路三本のうち、もっとも南側の道路を進むと突き当たりは宝来公園にあたる。宝来公園は、もともと田園都市株式会社が調布田園都市の付属物(憩いの場)として管理・運営していたが、田園都市株式会社が目黒蒲田電鉄に合併される際、寄付金(手切れ金のようなもの)と合わせて調布田園都市住民に寄贈された。この財産管理を目的として誕生したのが「社団法人」田園調布会というわけである。(田園都市として最初の洗足も同様に、弁天池公園と寄付金を得て社団法人洗足会となった。)
だが、公園管理は一自治会には荷が重く、東京市にこの地域が合併されて2年ほどで東京市に寄贈され、東京市宝来公園となったのである。
見にくい位置にあるが、寄贈されたことを記念する銘板が残されている。ちょっと不鮮明の部分もあるが、このようなことが書かれている。
本公園ハ多摩川ノ沿岸旧荏原郡下沼部村ノ丘陵ニ位シ附近ハ亀甲山古墳ヲ始メ上代文化ノ遺蹟ニ富ミ風光典雅ニシテ樹木湧水ノ美ハ克ク武蔵野ノ俤ヲ残セリ
大正十四年田園都市ノ開発ニ際シテ特ニ汐見台ノ地ヲ公園ト為 以テ旧景ヲ保存セラレシカ昭和九年十月所有者田園調布会ハ之ヲ本市公園地トシテ寄附セラレ爰ニ施設成リ開園ニ際シテ其由来ヲ刻シ同会ノ芳志ヲ後世ニ伝フ
昭和十一年四月
東京市
最後の一文に「其由来ヲ刻シ同会ノ芳志ヲ後世ニ伝フ」(そのゆらいをこくし どうかいのほうしを こうせいにつたふ)とあるようにこの銘板は地元にとって重要なものであり、残しておくべきものであろう。その一方で、東京都からこの公園を移管された大田区もこのような「宝来公園の由来」を掲示している。
ふぅ…(呆)。と、まずは嘆息を出してから(苦笑)。当blogで地域歴史研究関連(特に池上電鉄や目蒲電鉄関連)の記事をご覧いただいている方であれば、私の嘆きもわかってくれよう。以下に引用する。
本公園は、多摩川の沿岸旧荏原郡下沼部村の丘陵に位置し、附近は、亀甲山古墳を始めとする多くの遺跡に富んでいます。園内には、梅、桜をはじめ、クヌギ、シイなど、約70種1500本の樹木が繁り四季折々の自然の美しさは、今も、武蔵野の面影を残しています。
大正14年、田園都市の開発に際し、武蔵野の旧景を保存し永く後世に残すために、田園調布株式会社は、街の一画の汐見台の地を公園用の広場として残しました。その後、田園調布会に贈られ、昭和9年10月、当時の所有者、田園調布会より、東京市に寄附されました。東京市は、当時の金で一万円を投じて整備を行い、昭和11年4月「宝来公園」として開園されました。そして、昭和25年10月1日に大田区に移管され現在に至っています。
昭和61年2月 大田区
ほとんど、昭和11年(1936年)に設置された東京市の銘板のぱくりだが、致命的なところは「田園調布株式会社」としてしまったところだ。無論、正しくは「田園都市株式会社」だが、これを見て得心したものがある。何の書籍か忘れてしまった(どうでもいい内容だったから覚えていないのだろう)が、田園都市株式会社を田園調布株式会社のような勘違いをしているものをいくつか見たが、この大田区の看板から引用したのだとすれば引用者が哀れに思えてくる。何にしても、大田区はこの罪作りな案内板をかれこれ25年(4半世紀)以上も晒しており。その罪は重いと断言しておこう。
また、公園内にもこんな案内板があった。
大田区自然観察路「雑木林のみち」と題するものであるが、昨今のお役所では意味のない組織名変更ブームが続いており、数年毎(ひどい所では2~3年毎)に組織名を変えるなど迷惑千万なのだが、こういうところだけはしっかりと書き換えているようである。だが、多摩川園という2000年(平成12年)8月で改名された駅名は放置されている。約12年前に改名した駅名は放置で、自分の所の組織名はその都度変えているというのはいかがなものかといえるだろう。ついでにいえば、今は存在しない公園管理事務所もそのまま記載されている。
そして、比較的まともな宝来公園案内図。面白いことにこの案内板には、お役所の管轄や連絡先が書かれていない。頻繁に変わるものだから、あえて載せなかったとしたら英断だとは思うが、本末転倒であるとも感ずる。
と、宝来公園の件で思った以上に時間を取ってしまったので、この続きはまた次回。
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