ちょっとタイトル端折りすぎたか。東京府豊多摩郡渋谷町を通った武蔵電気鉄道と京浜電気鉄道の計画線、あるいは関東大震災前の地図に見る武蔵電気鉄道と京浜電気鉄道の計画線、いや、渋谷駅を避けていた武蔵電気鉄道と京浜電気鉄道の計画線、などなど。色々考えてはみたが、結構いい加減にタイトルを決めてしまった。タイトル(標題)と言えば、書き終えてから決める、書く前に決める、書いている途中で決める、と様々だが、私はこのBlogに関していえば、タイトルを決めてから内容を書くというパターンを踏襲している。かつて運営していたXWIN II Web Pageでは、開設当初はこのBlogのような感じでだらだらだったが、途中から「巻頭言」方式を採用することで、意図してタイトルにも凝るようになり、本文を構成してからそれに合った(または意表を突いた)タイトルを考えるようになった。思い起こしてみれば、当時はスクラッチでHTMLを書きまくっていたのだから、本文はもちろん体裁も考えながら構成していたので自明なのかもしれないが。
とまぁ、それはともかく今回のネタはこちら。以前でも採り上げた大正11年(1922年)の東京市及び周辺地図の一部分をピックアップしながら、あれこれ見ていこうという話。
場所は、現在でいえば東京都渋谷区(地図中では渋谷町)、東京都港区(地図右側)、東京都目黒区(地図中では目黒村)、東京都品川区(地図中では大崎町)にあたるが、大部分は東京府豊多摩郡渋谷町だ。左上からやや右斜め下に走る鉄道表記は現在のJR山手線、当時で言えば省線の山手線で、地図上から渋谷駅、恵比寿駅が描かれている(目黒駅はもうちょっと下で地図中には見えない)。で、注目はと言うと、赤い点線で描かれている鉄道計画線であり、まずは左下から渋谷町と目黒村の境界付近で二つに分かれている計画線。これは「武蔵」とあるように、武蔵電気鉄道の計画線である。
武蔵電気鉄道と言えば、地図発売(発表)時の大正11年(1922年)時点において、ちょうど五島慶太氏が田園都市株式会社(目黒蒲田電鉄)に引き抜かれる時期であるが、この将来有望な計画線はまさに画餅でまったく建設どころではなかった。興味深いのは、二つに分岐した先で一方は麻布二ノ橋まで(当時、東京市内に乗り入れる鉄道計画は珍しい)、もう一方は新宿駅(西口側)なのだが、面白いことにこの地図を見ると渋谷駅には乗り入れずに、せっかく山手線と平行していながら途中から渋谷駅を離れてしまうのだ。
麻布二ノ橋方面は東京市内乗り入れなので、大正時代には東京市の反対によって建設不可であろうが、新宿駅方面はなぜ渋谷駅を避けたのだろうか。山手線との平行を避けたのか、あるいは渋谷駅への接続をよしとしなかったのか…。武蔵電気鉄道が田園都市株式会社(目黒蒲田電鉄)によって統制(株式買収)下に入り、社名を東京横浜電鉄として姉妹会社となってからは渋谷駅に乗り入れ駅を変更(新宿駅乗り入れはそのまま存置、のちに失効)したのだが、武蔵電気鉄道の時にはなぜそうだったのかという点が興味深いというわけだ。
そしてもう一つの注目は、右下から上方向に伸びていく赤い点線。「京浜」とあるように、何と京浜電気鉄道の計画線(青山線)である。地図には出てこないが、池上電気鉄道が五反田駅から目指す先がこの青山線への接続だった。青山線は、東京市と郡部との境を縫うように走っており、東京市内乗り入れではないので反対を受けにくかったが、品川(八ツ山)から先への乗り入れを東京地下鉄道とタッグを組むことで東京市内乗り入れを推進することとなり、その過程で意義を失った。
もし、京急線が品川から都心方向を目指さず、山手線の内側を平行するように走り、千駄ヶ谷駅あたりまで乗り入れていたとしたら…。
──と、そんな計画線を眺めながら、今回はここまで。
乗り入れの記事を見る度にゲージの問題が経営陣により問題視されていないような印象を受けます。国鉄のような強力な組織でも小仏トンネルのような問題が生じますが、先を見越したビジョンを持つことの大切さを痛感します。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/07/16 12:33