いよいよ明日(2日)、菅内閣に対する内閣不信任案が国会に提出する流れとなり、それに同調する民主党内部の動きが報じられているが、意見は様々だ。首相側は、震災対応での不手際を認めつつも、震災・原発対応が落ち着くまでは投げ出すことはできないという「精神論」を振りかざすだけで、まったく反省の色が見られない。先月亡くなられた児玉清さんが文藝春秋5月特別号に掲載された遺稿で「“決死で頑張る”とか精神論を披歴するだけ、まるで昔の旧軍人総理となんら変わらない幼稚さだ」などと指摘していたように、幼稚かつお粗末なリーダーシップ?しか発揮できないのはもちろんだが、一方でIAEAが指摘しているように責任の所在についてもはっきりしておくべきと考える。
東京電力は既に社長の辞任は既定路線で、会長がそのまま居座るという人事ではあるものの、人事上の責任の所在は一応は示した。だが、東電と一体となった組織を立ち上げたはずの菅首相は、東京電力の単なる一組織(出先)に過ぎない福島第一原発の所長すら言うことを聞かせることもままならず、あまつさえ結果的によかったなどと事後承諾を与える始末では、リーダーシップや責任の所在など存在しないかの如くである。なので、このような非常時に向いていないと自覚するべきなのに、妄想から使命感だと勘違いしているものを発露させているだけで、権力の亡者と化している。既に平成23年度予算を通したのだから「もう役目は果たした」と思うのだが、どこまでがこの亡者がけじめの付け所と考えているのか、原発事故の収束と同レベルで見えない。
責任を果たすつもりなら、事故の対応失敗に対する責任を取るのが先であって、失敗という自覚を持てない時点でリーダー失格だ。リーダーは失敗の責任を取るのが当然で、居座るなど許されない。菅首相を変えても何も変わらないとか、代わりに適任がいないなどと言うのは筋違いで、本来なら自らの失敗を認めて「形の上だけだとしても」自ら職を辞すのが当然なのだ。だが、IAEAに指摘されるまでもなく、国のトップが原発事故対応などどこ吹く風で、他人のせいにしてしゃあしゃあと権力の座に居座っている。この異常さを外から目線で指摘されているということに気づくべきとなるわけだ。
そして、ついに内閣不信任案提出である。何とも見苦しい展開であり、意図的なTV等の街頭インタビューでは政争をやめてほしい的な持って行き方もひどいが、そもそもこうなってしまったのはどこの誰が居座っているかを考えれば、行く付くのはただ一人。国のトップなのである。
自分は悪くない、と思っているならそれこそ幼稚の賜。国会議員の皆様、このわがまま小僧を早いところ権力の座から降ろしてやって下さい。代わりがいるとかいないではなく、この無責任体質を改善する方向でやっていただきたい。居座る理由などに耳を貸さずに。
2011年6月2日昼追記
ようやく菅首相が、震災対応に一区切り付いたところで若い人たちへ、と辞意表明。最初からこうしておけばよかったものを。
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