前回は、「目で見る品川区の100年」の73ページにある3枚の写真のうち1番上の写真、池上電気鉄道線踏切(旗ヶ岡~長原間)を渡り初めと思しき写真の場所はどこなのかとして検討し、おそらく東京都品川区旗の台五丁目12, 22番から同13, 19番にかかる所ではないかとした。理由は、線路と道路が直交する箇所は他の要因(道路幅など)も含め、ここしかないからであるが、もしここだとすると次の地図との矛盾を来す。
これは、参謀本部陸地測量部の昭和4年(1929年)1万分の1地形図「品川」の一部であるが、この地図上で当該踏切の場所はどこにあたるかとなると、やや左下の逆コの字状に線路を跨いでいる辺り。つまり、この地図では当該箇所に踏切などなく、わざわざ高台に迂回して跨線橋を渡るように描かれているのだ(当該箇所は掘割部分にあたっているので、線路の方が低い位置となる)。この跨線橋の長原寄りにはもう一つ跨線橋があり、こちらは通称「どんどん橋」とされる跨線橋である。これは一体どういうことなのだろうか。
地形的には北側下りの急斜面であるので、おそらく地形なりに線路を敷設するとなると、傾斜角度が急過ぎて鉄道では登り切れなくなることを考慮に入れ、切り下げによる掘割化をしたとなるが、周囲の高さと鉄道線路の高さにあまり差のない所では跨線橋を架けても電車の頭を擦ってしまったり、あるいは必要以上に高い位置に跨線橋を設置しなくてはならなくなる。そこで一定の高さの所まで迂回し、跨線橋を架けたということが地図上からはうかがえるのである。
しかし、「目で見る品川区の100年」の73ページにある3枚の写真のうち1番上の写真をもう一度確認すると、しっかり踏切警報器まで設置された立派な踏切道であることがわかる。地形も線路が掘割の中にあったことはもちろん、踏切を設置するため道路自体も土地を切り下げ、あえて線路と平面交叉するようにしたこともわかるだろう。そうなると、この写真が昭和2年(1927年)8月28日に撮影されたとするならば、昭和4年(1929年)の1万分の1地形図はどうなんだ?ということになる。
もう一つ補強資料を示そう。
これは昭和9年(1934年)発行の東京市荏原区(現 品川区の一部)の地図一部分であるが、池上電気鉄道線を左下から区界道路(平面交叉)、跨線橋(通称 どんどん橋)、平面交叉(注目する踏切道)、三間道路(平面交叉で踏切)と描かれており、地番表記で「1220」とある辺りから上写真が撮影されたと見るが、この道路の先(図中 東洗足派出所と文字のある下あたり)の煙突マークに注目である。このマークは銭湯を意味し、当時このあたりに煙突の立つような工場はなく、あったとしても銭湯のものくらいであるので、上写真奥に見える煙突はおそらくこの地図に示される煙突マーク=銭湯でないかと見る。
さらに参考資料として、昭和8年(1933年)撮影された航空写真も示しておこう。やや見にくいが、おおよその概要は掴めよう。問題の踏切付近(上航空写真ほぼ中央)はまだ更地であるが、迂回する跨線橋は既にない。また、通称どんどん橋は線路上に影を落としている(黒くなっている)ので、三間道路から区界道路までの間に跨線橋は一つ(通称どんどん橋のみ)しかないことが確かめられる。
さて、結論。もし、池上電気鉄道の第三期線(雪ヶ谷~桐ヶ谷)の開業に合わせた式典前後の写真であるならば、昭和4年(1929年)1万分の1地形図のあの逆コの字の道路と跨線橋は何なのだろうか。と疑問を呈しつつ、今回はここまで。残る話はまた次回(以降)。
脚の形状からみて私が記憶しているどんどん橋であると思いますが、両橋詰めに階段が無く、土盛りされた道路のようになっており、橋がわずかではあるが湾曲して太鼓橋状態のようにもみえますが、現在は直線の橋です。終戦直後友人を訪ねるためにこの橋を渡った時に階段がありましたので階段はかなり以前からあったようです。三間通りの踏み切りと問題の次の踏み切りの中間地点あたりで33.33パーミルの勾配の標識がありますので、ここから環七までの距離を計算しても1.8メートルぐらいかさ上げしないとパンタグラフの有効高が得られませんので地面より橋を高くしたのでしょう。環七は都道ですので立体交差の工事費の半額は都が負担しますが、どんどん橋は恐らく区道ですので、品川区が負担を拒否すれば平らにするための線路の掘り下げの工事代金の負担をしてもらえません。それが証拠にどんどん橋まで標識から急勾配を登りその先で環七に向かって下り勾配となっています。逆コの字跨橋はバリアーフリーの横断歩道のような長い上り坂でなければ階段無しでは無理ではないかとの疑問が残ります。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/06/27 16:52
追伸
どんどん橋の湾曲は目の錯覚のようです。添付ファイルから見たので見誤ったのかも知れません。この湾曲は無視して下さい。申し訳ありませんでした。また風呂屋はたしかに在ったような記憶があります。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/06/27 16:59
地図のエントツは、「清水湯」ですね。
私が小学校~中学校のころまでは、ここらあたり銭湯が複数ありました。
少なくとも昭和30年代までは、内湯があるのは1軒屋で、店舗やアパートにはなかったようです。(我が家は内湯はありましたが、長い間、薪で焚いておりました)
投稿情報: りっこ | 2011/06/27 22:13
原本の写真を品川図書館で閲覧した結果から次の推論を引き出しました。
引用されている番地は東京日々新聞昭和10年11月1日の地図を基礎としています。
中延町907番地の踏み切りつまり旗が岡駅を五反田方面に出て最初の踏み切りです。その根拠は
踏み切りの南側から撮影されたものであることを前提条件として、
917番地の南側と東側の家屋が写っており、後ろに銭湯があるようになっている。
向かって左側の高くなっている地面は旗が岡駅の駅前広場と同じ高さで、五反田方面へのホームと広場の高さが同じである。
警報機が付いているのは荏原町方面への人の往復が多かったからではないか。当時は警報機も遮断機も無い踏み切りが多数在った。運転密度も低く、自動車の騒音も無かったので人々は電車の音に気が付くことができた。
小生は品鶴線から可成り離れた雪谷に住んでいますが、昭和37年頃で多摩川の鉄橋を渡る貨物列車の音が夜間だと聞こえました。
この道路は荏原八幡に向かう道ですので渡り初めの人々は神社に向かったのではないでしょうか。
この写真で見られる様に既に人家が密集しているので、中原街道の馬車やバス輸送や目蒲線の開通で既に爆発的な人口の増加が見られたことが分かります。大井町線の洗足経由が不可能となった理由が分かるような気がします。
三間道路から分かれた道に架かる跨橋ですが、どんどん橋の後ろに橋脚らしきものが写っており、文化普及会の地図でもコの字の跨橋が記載されていますが、何故人が渡るためだけの横断歩道的なものを設けなければならなかったのかは理解に苦しみます。大八車でも後ろから押してもらわなければ登れません。ましてや前進3段のA型フォードのロウでも登れません。4WDの無かった時代では車で此処を渡ることは不可能ではないでしょうか。大井街道への連絡路であることを考えて理解できません。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/06/28 16:56
中延町3丁目907番地の踏切、ということは……
>>当時の旗ヶ岡駅に一番近い、旗の台3丁目12番地あたり。現在子育て地蔵尊のある、さらにもう少し荏原中延寄りの踏切です。
木造院電車両マニア様のおっしゃる場所と、私の考えていた場所が、同じになりましたね。
この踏切、昭和48年当時まではあるのに、今はない、というところも、ミソかなぁ。
それと、私、「開通式」の写真を最初に見たときに、これは、神社かなと思ったんです。でも、神主さんの姿が見えないから、違うのかなと。
渡り初めの写真は、旗の台南町会保有の写真。
旗の台南町会も、旗ヶ岡八幡の氏子なんで。
お祝いごとだったら、やっぱり旗ヶ岡八幡でやるんじゃないかなぁと思いましたが。
あ、旗ヶ岡八幡と、荏原八幡は同じですよね?
それと、跨線橋ですが。
先日、コの字型の跨線橋のかかっていたハズのところから、電車を見下ろしたんですが、低いんですよね。
この土手から旗の台文化センターに橋をかけたら、よほど上を高くしないと、電車の上の電線がぶつかってしまうだろうと。
だから、あのコの字型の地図は、どうしても不思議なんです。
昭和8年の商工地図にも記載されていますが……
投稿情報: りっこ | 2011/06/28 21:20
町会の開通式の写真は、自治会誌で公表されているものなので、ここで発表されても構わないと思います。
さて、その写真を見まして、幾つか新たに見つけた点を書かせていただきたいと思います。
演台後方から写した写真について。
集まった人々の姿が見えます。そこで、とても奇異に感じることが。
開通式典は、8月28日という「夏」今ほどの猛暑ではないにしても、大人はともかく、子供たちの服装が、全員長袖。中にはセーターを着ているとおぼしき子もいます。
半袖の子供は一人もいません。一体これはどうしてなんでしょうか。
演台を前面に写した写真
「開通式次第」があります。
不鮮明のため、ところどころわかりませんが、こんな感じです。
開会の辞
経過報告
会計報告
○○○○挨拶←○のところ、不明
○賞式
○辞
通始式
宴会(旧漢字)
来賓祝辞
万歳三唱
閉会の辞 以上
さて。ここでポイントは、「通始式」です。
どうやら、この式次第の真ん中で、通り初めをした様子。
この様子を写真にとったのが、冒頭の写真と思われます。
そして、続いて、宴会
1枚目の写真奥。テーブルが並べられ、エプロンをかけた婦人たちが、宴会の準備をしています。
投稿情報: りっこ | 2011/06/29 18:14
前の記事の続きです。
そしてこの開通式典
すぐ後ろに、電線が見えます。これは、どんどん橋のところにあるものと全く形が同じです。
ということは、この式は、かなり高く、そして線路至近の崖の上で行われているものと思われます。
どんどん橋の写真
目をこらすと、どんどん橋のすぐの後方に、もう1本の橋梁が見えます。特に橋脚ははっきり見えます。台座のようなものも見える気がします。この橋は、私のイメージでは、ごく簡易な橋で、しかし高さが必要なため、簡素な階段を両端につけて、わざわざ高くしているような感じがします。
そして、どんどん橋にいる「名士」たち。
向かって右から8人目は、神主さんのようですね。衣冠束帯のように見えます。
投稿情報: りっこ | 2011/06/29 18:18
そして
地元の友人に、一つの実験を頼んでみようと思っています。
それは、このあたりの位置からどんどん橋を見ることができればですが。
どんどん橋をこんな感じで見たときに、後ろの踏切が見えるかどうかです。
この写真では、後ろには全く踏切が見えません。
もし、踏切が見えないとしたら、昭和2年当時。
ここにあったのは、踏切ではなくて、跨線橋、ということになります。
先日行って思ったのですが。
どんどん橋と、隣の踏切は、ごく近い場所にあり、この位置から撮影したら、旗の台寄りの踏切が見えるんじゃないかと思うのですが。
投稿情報: りっこ | 2011/06/29 18:25
すみません。書き方が変でした。
「もし踏切が見えるとしたら」です。
投稿情報: りっこ | 2011/06/29 18:27
何度もすみません m(_ _)m
昭和7年の地図を見つけました。
荏原町消防組第3部解散記念 東京府荏原町全図 平塚村耕地組合整理完成後の図
縮尺六千分の一
文化地図普及会
どんどん橋より、一番五反田寄りの踏切のところですが、道が線路の直前で、明らかに曲がっております。この道は、昭和7年時点で、直線道路ではないようです。
投稿情報: りっこ | 2011/06/29 18:48
しつこくも、また登場してしまいます(;^_^)すみません。
ちょっと考えを変えました。
あの踏切は、旗ヶ岡駅を中心として、荏原中延寄りではなくて、長原寄りの踏切だったのではないかと。
現在の旗の台2丁目6番地→旗の台3丁目10番付近です。
当時の中原街道から真っすぐの直線距離で、このまま進むと、旗ヶ岡八幡にも直線で行かれます。結構広い道です。
背後の煙突は、昭和医大の煙突かもしれません。全景写真を見ると、煙突があるように見えます。
ただ、ここは、すぐ近くを立会川が流れています。等高の問題がよくわからないのですが……
それから、どんどん橋近くの踏切がなぜ曲がっているかというと、もしかしたら地権者が、踏切至近の土地を売らなかったんじゃないかと。線路の向こう側もこちら側も字旗の台1229番で、道はその地番を避けて通しています。(昭和6年の地図も同)
投稿情報: りっこ | 2011/06/29 20:05
壇上からの写真の向かって右側の旗ですが、「東洗足誠交会」です。
投稿情報: りっこ | 2011/06/29 21:15