昨日(13日)、標記のタイトルで記事を書こうとしたがなかなかまとまらず、今日(14日)になって改めて書こうと思ったが、やっぱりまとまらなかった(苦笑)。東京電力社長は、原発事故の責任から逃れられないのは当然だが、内閣総理大臣も同様だと私は見る。何せ政府は東京電力と一体的な対策本部を立ち上げただけでなく、本部長は東京電力社長ではなく内閣総理大臣なのだから(副部長が東京電力社長)。
ただ、東京電力社長は国民の意見でやめる必要などない。取締役会とか株主総会とか、そういった類の場で引導を渡されるものだ(他にもあるが、国民の意見でないことは明らか)。内閣総理大臣はといえば、これも正確に言えば国会の場で決まるものであり、直接民主制を採っているわけではないので、国民の代表が決定している建前はあれど、それは国民そのものとは言いがたい面も持つ。党利党略などを見れば、そのあたりはわかるだろう。
なので、どちらも国民の意見云々ではないことがわかるが、それでも内閣総理大臣の方が国民の意思で職を辞すべき性格が強いものだ。だが、統一地方選前半戦の結果が出ても、党の幹事長すら職を辞さない厚顔無恥の仲間のためか、まるで関係ないかのごとしである。地方と国政は違うのは当然だが、国民の声を表す場が地方選しかないのだから、関係大ありである。まぁ、そんなことはわかってはいるが認めたくないのだろう。この先も居座り続けるつもりなら、次の統一地方選後半戦でも同じ結果だろうし、失われた信用は回復不能だ。しかも個人の信用などと言う小さなものではなく、国全体の信用だ。
トップはその組織の象徴だ。国はもちろん企業もそうだし、団体の類でもスポーツにおける監督などでも同様だ。その信用・信頼が失われたらどうなるのか。トップの失墜は組織全体の失墜となる。そんなこともわからないトップには、どなたか裸の王様に服を着させてあげて下さい(呆)。
いつも理科系な記事を興味深く読ませていただいてます。
トップをやめさせようにも、政治の方はうまくいかないのは、私がいつも巡回する「軍事評論家「佐藤守」のブログ」でも、戦後民主主義システムでは本人がやめると言わない限り首相は替わらないと書いていて潮書房の月刊誌「丸」の連載記事 ”われは空の子”奮闘記でも政治家や新聞記者たちと接していた当時の事情を読むことができますが、佐藤さんも”外資系”の民主党はダメな組織だとわかっているけれども、国民が行動しないことに呆れているようにも思えます。
投稿情報: nikapyon | 2011/04/15 05:33