池上電気鉄道奥沢線(新奥沢線)の歴史を探る話が完結していないが、このシリーズで対抗路線としての目黒蒲田電鉄大井町線(二子玉川線)、現在の東急大井町線を採り上げた際、変転とする大井町線敷設ルートが興味深いものの一つとして気になっていた。今回は、それに対して私なりの検討をしていきたいと思う。
以前にも記したように、現在の東急大井町線はもとは二つの路線計画を一つの路線として成立させたものであり、その二つとは「田園都市株式会社由来の大井線(大井町線)」と「奥沢~二子渡間を嚆矢とする二子線」となる。これをあれこれ語り出すとこれだけで本記事が終わってしまうので、二子線(のち二子玉川線)だけの変遷を確認すると、
- 大正13年(1924年)7月24日、目黒蒲田電鉄、奥沢駅~瀬田河原(二子玉川)間、鉄道敷設免許申請。
- 昭和2年(1927年)12月27日、目黒蒲田電鉄、二子玉川線(奥沢駅~瀬田河原間)の免許認可。
- 昭和3年(1928年)4月13日、目黒蒲田電鉄、工事施行認可申請に際し、接続駅を奥沢駅から大岡山駅に変更。同時に、東京横浜電鉄と接続駅に関する協定を締結(九品仏駅を接続駅とし、駅名を衾駅と改名など)。
- 昭和3年(1928年)6月23日、奥沢駅周辺地主から接続駅を変更した件に関する陳情が出される(同時期に目黒蒲田電鉄宛にも提出)。
- 昭和3年(1928年)8月29日、目黒蒲田電鉄、二子玉川線(大岡山駅~瀬田河原間)の工事施行認可。
- 昭和3年(1928年)9月6日、目黒蒲田電鉄、二子玉川線建設工事着手。
というように、ルートの細かい変更もさることながら根本的な変更点は「接続駅を奥沢駅から大岡山駅に変更。同時に、東京横浜電鉄と接続駅に関する協定を締結」に尽きるだろう。単なる荏原郡玉川村内を通過するだけの鉄道から、目黒蒲田電鉄及び東京横浜電鉄の各線を結びつける重要な役割を担う路線に、大きく性格付けが変わったのである。
この変更の直撃を受けたのが、奥沢駅周辺地域であるのはいうまでもない。そして、ルートを荏原郡玉川村内で完結していた路線計画を東京横浜電鉄線九品仏駅(現 自由が丘駅)と接続させるために、隣接する荏原郡碑衾町を一部通過するようになった影響を直撃するのもまた奥沢駅周辺地域となった。「池上電鉄奥沢線(新奥沢線)の歴史を探る その11」でも示した奥沢地域地主有志の陳情は、既に奥沢駅を分岐駅から変更したことを是認した上で、変更ルートに対する陳情内容となっている。
本図で注目されるのは「通称海軍村」と称される地域(上図においては左上あたり)を「第壱次測量線」では通過しているが、「第弐次」以降の計画線(測量線)ではこの地域が外されている点である。単純に考えて、住宅が建っている地域よりも建っていない農地等の方が用地買収・移転費用等から見て有利であるので、「通称海軍村」でなかったとしてもこのルートを選定することは通常あり得ないはずだが、最初にこのルートを選定したということはそれなりの理由があったと考えてしかるべきだろう。
なお、「通称海軍村」付近を拡大した図も上に併せて掲げておく。
と、考察に入る前に、ここで奥沢海軍村が成立するまでの歴史を簡単に地図から振り返ってみる。この地域が市街地化する決定的なものは、目黒蒲田電鉄が当地に目黒線(のち目蒲線、現在は東急目黒線)を開通させ、奥沢駅が開業したことが寄与しているが、開通前から開通後まで俯瞰することで見えてくるものが出てくるはずである。
まずは、大正4年(1915年)における1万分の1地形図で確認する。本図を流れる河川は九品仏川であり、図左端にある「八幡神社」(右から左へと表記)は、現在の奥沢神社である。「沖ノ谷」と見えるのは、荏原郡玉川村大字奥沢に含まれる字名であり、数戸の家屋が点在するだけの様子が伺える。
これが昭和3年(1928年)になると、近郊農村然としていた状況は一変し、鉄道と駅の開設によって市街地化が進んでいることが確認できる。
さらにその3年後になる昭和6年(1931年)頃になると大井町線も開通するが、これを単純に3年経過としにくいのは、鉄道補正等、必要最小限の修正を行った可能性を捨てきれない(こう考える理由は後でふれることにする)。ここで、同時代資料として昭和8年(1933年)に撮影された航空写真で補完しておこう。
主に奥沢海軍村と称される部分を中心としたので、これまでに示した地図と比べると範囲は狭まっているが、必要十分だろう。なお、よく見てみると昭和3年(1928年)及び昭和6年(1931年)の地図と比べ、一部道路パターンが変わっているが、これは玉川全円耕地整理組合、奥沢東区(工区)として耕地整理工事を施工した結果である(陳情添付図はあまり正確なものではないが、それでも奥沢駅北側の道路パターンを見れば、それが大きく異なっている点に気付くだろう。つまり、奥沢海軍村付近は奥沢東区の耕地整理工事よりも先行して道路が作られているのである)。
以上、地図等の変遷からわかるように奥沢海軍村と称される当地は、玉川全円耕地整理組合(奥沢東区)が施工する地域に含まれていながら、その実は施工前に、もっと言えば組合成立前に既に住宅地として準備されていた。このことは、大正13年(1924年)に当地域の地主である原氏と海軍省の軍属が土地の賃貸借契約を締結していることからも傍証できる。ちなみに玉川全円耕地整理組合、奥沢東区の事業経過は以下のとおり。
- 昭和3年(1928年)4月21日、奥沢東区役員選挙。
- 昭和3年(1928年)12月18日、奥沢東区工事着手(諏訪分、尾山、奥沢西に次いで4番目)。請負金15,666円。
- 昭和4年(1929年)9月20日、設計書変更認可。
- 昭和11年(1936年)9月30日、奥沢東区工事完了。
- 昭和15年(1940年)10月10日、奥沢東区換地処分並特別処分認可申請。
- 昭和16年(1941年)2月15日、奥沢東区換地処分並特別処分許可。
実際の施工(工事)よりも多くの時間を要するのは換地処分と登記であり、おそらく土木工事そのものは正式には昭和11年(1936年)までかかっておらず、工事着手して2~3年以内には大まかなところは終わっているはずだが、昭和3年(1928年)の地図にしっかりと住宅地然としている奥沢海軍村は、この耕地整理事業と無縁かつそれ以前のものだと確認できるのだ。
と長くなったので、いったん続きます。
仰せの通り以前から海軍村と称せられる高台が際立って早期から宅地化されていることに気が付いていましたがその背景が分かりました。自由が丘から横浜経由で横須賀鎮守府に、奥沢から目黒の海軍技研にも、また目黒から市電で海軍省に通勤するのに便利だったとのことです。昔の市電は、自動車も少なく、交通信号も少なかったので平均速度はかなり高かったようです。昨今はタクシーでも平均時速15kmを切ることもあります。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/10/25 17:41