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2010/09/05

コメント

鷹番町に限らず、この付近には目黒通りに対して鋭角に交差する旧道がいくつかあります。この辺は耕地整理もままならなかったのでしょう。上大崎ではなく鷹匠が活躍した目黒で将軍様もさんまを賞味されたのでしょう。

>地元の方は当たり前すぎて気にも留めていないかもしれないが、そうでない人にとっては気になってしまうようなものだろうか

あります!T字路もそうですが、Y字路なんかもそうじゃないでしょうか。
雑誌の写真で、毎号Y字路が載っているのを見たことがあります。T字路とY字路って、成り立ちが似ているところがあるのでしょうか。

ところで、上記の地元の人は当たり前すぎて……というやつなんですが、私にとっては不思議でたまらない、「地元の不思議」があります。
それは、旗の台6-33と、大田区南千束1-1の、「区境」のことです。
ナント、ここ。区境なのに、道がありません!
そして、品川区と大田区の区境は、ここらあたり、環七の、一つ品川寄りの道路で、ずっと区切られています。

確かに昔、環七は、しょぼい道でした。でも確かに「道」として存在はしていたのに、なんでわざわざ、道のないところを区境にしたのでしょうか。
下手すれば家の真ん中に区境が通ってしまう。
小さいころから、いつも不可解でした。

コメントありがとうございます。

>この辺は耕地整理もままならなかったのでしょう。

目黒区のうち、旧目黒町は耕地整理あるいは区画整理を実現できなかった区域は多かったのですが、旧碑衾町はできなかった方が少ないです。やはり、主要道路に面した所がやりにくいというのは基本的に変わらない印象です。

>確かに昔、環七は、しょぼい道でした。でも確かに「道」として存在はしていたのに、なんでわざわざ、道のないところを区境にしたのでしょうか。


これはずばり土地所有者の違い、です。かつて飛地が多かったのは、土地所有者が同じであれば同じ村であり、土地が連続しているか否かはほとんど関係ありませんでした(例外有)。土地の境界(所有者の境界)が道路や川等で区切られていないのは、多くがそういう形態を引きずっているからと思われます。

鷹番町の角田様は城南地区の大地主で、一族の方で第二延山小学校の校長先生を勤められましたが、残念乍ら就任間もなく脳卒中で他界されました。温厚な方でしたので今でも記憶に残っております。

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