前回は東急池上線関連について見てきたが、今回は東急大井町線関連について見ていこう。前に記したように、本書は文書があまりないので誤りがそう多くないが、それでも見つかって(見つけて)しまうのは最近、東急大井町線関連についても歴史を調べているからとなるだろうか(苦笑)。というわけで、以下よりスタート。
大井町線は幹線道路と何度も交わる路線でもあり、戸越公園~中延間は東急線で最初に立体交差化された区間である。(22ページ)
幹線道路と何度も交わるというのは主観的表現なので敢えてふれないでおくが、後半の「最初に立体交差化された区間」は誤りである。著者がこう記したのは、おそらく「東京急行50年史」に記載されている工事に関する部分の記述を参考にしたからと思うが、「東京急行50年史」は位置づけ的に「東京横浜電鉄沿革史」を継ぐものとなっており、いわゆる大東急以前の、もっと正確に言えば昭和16年(1941年)以前の工事関係の記述は、重複を避けるという意図で記述されていないのだ。ただし、ここにいう「東急線で最初に」という意味合いが、戦後の大東急分裂後で最初に、というのであれば正しいがそんなわけないだろう(笑。他にそう読めるところはないため)。
東急線で幹線道路との立体交差を最初に行ったのは、昭和4年(1929年)開通した目黒蒲田電鉄二子玉川線(現 東急大井町線)上野毛駅近くの環状8号線に対する立体交差と考える。これは設計の段階から立体交差となるよう、荏原郡玉川村(玉川全円耕地整理組合)からの要請もあったが、都市計画上当局よりの求めに応じて実施されたものである。また、立体交差化(平面交差を立体化した)という視点では、新京浜国道(現在の第二京浜国道、地元以外では国道1号線という呼称がわかりやすいか)に対する立体交差工事を現在の東急多摩川線 武蔵新田駅~矢口渡駅間、東急池上線 千鳥町駅~池上駅間をいずれも昭和10年代に施工しており、これらを考慮に入れれば当該記載が誤りであるとなるのである。
旗の台から、木造のホーム上屋がたたずむ北千束を過ぎると、目黒線と合流して大岡山に到着する。天候次第では、ホームから富士山を望むことができるという。(22~23ページ)
この文脈から、富士山の見えるホームとはどの駅のことを指すのだろう? やはり大岡山駅となると思うのだが、現在、大岡山駅は地下化されており、天気の良し悪しとは無関係にホームから富士山を望むことはほとんど不可能である。どうしても大岡山駅ホームから富士山を望みたいという場合は、次の手順が最低でも必要である。
- 東急大井町線及び東急目黒線ホームの西端(電車がとまらないさらに先)まで行く。
- 危険だが、転落防止柵の危険ゾーンぎりぎりまで体を乗り出し、遠くに見える線路彼方の風景を見る。
しかし、私はこのようにしても富士山などまったく見えなかった。
追記:当記事のコメント欄にご紹介いただいたように、上述の手順を踏まえれば見える場合がある。ただ、逆に言えばここまでしないと見えないわけで、本書の著者も厳しい内容を書いたものだと感ずる。
まず、ホーム西端まで進んでみてもこんな感じ。光っている先に地上風景が見えるが、だいたいこんなところまで来なければ外が見えないにもかかわらず、富士山が望めるというところがいい加減だとわかる。
カメラでZoomしてもこんな感じ。これで富士山を望もうというのは、厳しいと言うよりも不可能に近い。著者にはどのようにしたらホームから富士山が望めるのかを確認したいところだが「~できるという」という表記から、おそらく著者のいい加減な引用なのだろう。実際、大岡山駅が地下ホームだと知っていればこんな記述になる方がおかしく、いかにも紀行風に書いては見たものの、本当は「見てきたように書いているだけ」の可能性も指摘できる。推測だが、この記述はかつて大岡山駅が地上ホーム時代だったときの他書からの引用を、今に引き写しただけのミスに過ぎないと見る。なお、大岡山駅前後の北千束駅及び緑が丘駅のホームからであれば、これこそ天候次第で富士山を望むことは可能である。
五島美術館が立つ上野毛の手前から、多摩川の流れが造った緑豊かな国分寺崖線の掘割を走る。(23ページ)
確かに上野毛駅の手前(等々力駅~上野毛駅間)から掘割になっていくが、これは崖線部ではなく台地部分を地上の道路(環八通り等)と立体交差化させるために削り取ったもので、国分寺崖線というのであれば上野毛駅~二子玉川駅間となるだろう。どうしても国分寺崖線という言葉を使いたいのだったら、上野毛の手前でなく上野毛を過ぎてとした方が適切だ。
自由が丘駅付近には大井町線の踏切が5カ所もあり、目黒区によって立体交差化が検討されている。(22ページ)
「自由が丘駅付近」の「付近」をどこからどこまでとするかによって数え方は変わってくるが、著者の言う5か所は単に目黒区内の大井町線踏切数を言っているだけで、けっして自由が丘駅付近の踏切数ではないと見る。というのも、自由が丘トレインチすぐ西側にある踏切は、どう見ても自由が丘駅付近というに相応しい場所にあるにもかかわらず、ここを含めると踏切の箇所は6か所となり一つ多くなってしまうのである。そして、このトレインチすぐ西側の踏切(自由が丘第2号踏切)は世田谷区に属することから「目黒区によって立体交差化が検討」より外れているのは自明となる。つまり、著者は5か所を自由が丘駅付近の踏切数と認識したのだが、これは単に目黒区内の話であって、世田谷区内にある、より自由が丘駅に近い踏切が含まれていないことに気付かなかった、というかおよびもつかなかったのだと思われる。
木造の上屋が今も残る等々力駅は、島式ホームが上下線に挟まれているため、駅を出るには踏切を通らねばならず、駅の地下化が検討されている。(23ページ)
著者は、等々力駅地下化反対運動を知っているのだろうか? と思わせるような無邪気な書き方である。駅の地下化は踏切解消という視点がないわけではないが、もっと大きな目的として大井町線急行運転に対する追い抜き施設建設のための地下化であることに、まったく注意が払われていない。騒動に巻き込まれたくないのなら、地下化の話はふれない方がよかったと思うが、このような無邪気な表現であることからまったく知らないのだろう。
なお、等々力駅地下化反対運動では、等々力渓谷関連の地下水問題等の言い分はよくわかるが、大井町線急行運転の必要性に関する言い分については疑義を持たざるを得ない。反対運動者の中には、たかが数分(2~3分)速くなるだけでほとんど変わらないという主張をするものがあるが、このたかが数分が重要なのだ。東急田園都市線混雑緩和策として大井町線を活用する以上、これを利用してもらう(いただく)ためにはわずか数分の短縮でも大きな意味があり、それこそたかが1分でも表記上短縮できることは、競争(自社内であっても)する以上、重要事項であると言えよう。どうも端から見ていて、等々力駅地下化反対運動の地元の「本音」は、単に急行運転反対(等々力駅に急行が停車するとされていたらここまで大きな反対となったか?)に見えてしまう。等々力駅は歴史的に見て、荏原郡玉川村の中心地であり、今日においても行政施設が集中していることから、急行停車駅とならないことが地元をがっくりさせてしまったのだと感ずる。現在は急行運転も始まっており、無理に地下化しなくてもよいという流れとなってしまったら、ますます等々力駅周辺の地盤沈下(自然でなく経済)が進み…と話が横道に逸れすぎるのでここまでとしよう。
大井町線は、目黒蒲田電鉄が目蒲線の支線として計画し、1927(昭和2)年7月に京浜線(現・JR京浜東北線)の大井町と目蒲線の大岡山を結んだことに端を発する。(26ページ)
「端を発する」というのが、計画を指すのでなく事実(運行)を指すのであれば正しいが、文脈から計画時点の話から「端を発する」がつながっていると読めるので、これからすれば誤りとなる。もともとの計画は大井町~大岡山~旭野(荏原郡調布村)であり、大岡山~目黒が支線として追願される流れである。その後、目黒線(目黒~大岡山~丸子)開通、蒲田線(丸子~蒲田)開通し、目蒲線となって本来の本線が事実上の支線となった。
五島慶太社長が、現在の田園都市線沿線一帯に「多摩田園都市」構想を提唱すると、大井町線を溝ノ口から南西へ延伸する計画が浮上した。(26ページ)
五島慶太社長が、とあるが五島慶太氏が東急電鉄(当時、いわゆる大東急)の社長だったのは戦前の東条内閣における運輸通信大臣就任前までであり、戦後は公職追放され、取締役に復帰したのは公職追放解除後の昭和26年(1951年)からである。その翌年に代表取締役会長に就任するが、戦後は社長の肩書きではない。つまり誤り。
さらに「多摩田園都市」構想とあるが、これも厳密に言えば誤り。最初(昭和28年=1953年)は「城西南地区」という表現であり、昭和31年(1956年)に「多摩川西南新都市」と変更、多摩田園都市と名乗るのはこれをさらに下り、大井町線溝ノ口駅~長津田駅間の起工式にあわせ、大井町線を田園都市線と改名した昭和38年(1963年)10月11日に多摩田園都市と命名された。五島慶太氏は会長職のまま、昭和34年(1959年)8月14日死去されているので、多摩田園都市という名称にかかわっていないのだ。本書34ページには五島慶太の評伝まで載せているのに、このあたりの誤りは指摘できて当然だと見るが…。所詮その程度と言うことか。
田園都市会社が大崎町(現・目黒)から碑衾村(洗足)までの地方鉄道免許を政府に申請(26ページ)
誤り。当blog記事「田園都市株式会社第二期線(目黒~大岡山)計画図を眺める」で示したように、申請書には「荏原郡碑衾村大岡山停留場ヨリ分岐シ同郡大崎町目黒停車場附近ニ至ル」とあり、これから見て「碑衾村(洗足)」と読む方がおかしいのは自明である。歴史的経緯から、当初は目黒~大岡山で申請、許可、その後、大岡山を洗足に変更したが、さらに大岡山駅に変更したのだが、このあたりを踏まえていない資料でも参照にしたのか、あるいは錯誤したものと思われる。ちなみに地方鉄道免許申請時の大岡山停留所(予定地)は、現在の大岡山駅(東京都大田区)よりも北側にあり、位置的に荏原郡碑衾村内(現在の東京都目黒区)で間違いない。
最後になるが、本書9ページに掲載されている「東京急行電鉄①路線図」には、大井町線が二子玉川から溝の口まで乗り入れる運行パターンが急行と普通の2通りしか書かれておらず、普通でも二子新地及び高津に停車するものとそうでないもの(この両駅の扱いは田園都市線なので大井町線では本来は停車しない扱い)の2通りあることが示されていない。一般本ならともかく鉄道本を標榜する以上、ここを外してはまずいだろう。(ちなみに本書26ページにはそのあたりの説明がしっかり記述されているので、横の連絡ができていないというつまらない理由と思われる。)
といったところで、今回はここまで。
大岡山駅ホームから富士山は見えます。
こちらのサイトをご覧ください。
http://fujisan.world.coocan.jp/ekifuji/archives/2008/11/13040308.html
投稿情報: 昭ちゃん | 2010/09/21 16:32
昭ちゃん 様、情報&コメントありがとうございます。
このサイトについては承知しておりました。なので、私も大岡山駅まで出かけてみたのです。ただ、あれはカメラのZoom機能に多くを頼っていて、視力の弱い人はもとより、私のように1.0程度であっても相当に厳しいものだと思います。
また、ホームとはいえ、電車が停車しない場所(目黒線8両編成対応部分のため)の端の端まで行く必要があること。当blog記事中にも示したように、相当ぎりぎりまで線路側に入らなければならないこと等を現場で確認したことから、まったく見えないわけではないが、見えると言うには無理があると判断したのです。
投稿情報: XWIN II | 2010/09/22 07:45
XWIN II様
大岡山駅/富士山
サイトの撮影日時を見ますと冬季に限られているようにみえますので、一年間でも見られる日は冬の良く晴れた寒い時の様にかなり限定されると思います。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/09/22 10:22
ご存じでしたか。失礼しました。
どこへ行っても富士山を探すのは、空気が澄んで山が冠雪している冬が良いようです。
夏場は、神奈川県内でも空気が濁りその中に姿も沈んでしまい探すのに苦労すること多々あります。
投稿情報: 昭ちゃん | 2010/09/22 14:43
昭ちゃん様、コメントありがとうございます。
>ご存じでしたか。失礼しました。
↑
とんでもございません。コメントをいただけるからこそ、フォローができるのであって、本記事も以前よりは的確なフォローができたと思っています。
>夏場は、神奈川県内でも空気が濁りその中に姿も沈んでしまい探すのに苦労すること多々あります。
↑
台風一過や正月のような空気が澄んでいるときには、富士山がよく見える我が家(ただし屋上)ですが、仰せの通り、神奈川県でそのような状況であれば東京では見えないのも自明かと思いますね。
投稿情報: XWIN II | 2010/09/23 08:24
等々力駅地下化について現実の動きが止まっているため
最近何の情報がなかったため、このような形で朝日新聞
系統の出版物がいい加減な記述で掲載していることを検
索してたどり着き大変参考になりました。私には地下化
反対は当然なのですが、急行反対は確かにどうかなと思
っていました。ただし当時アンケートでは急行反対は本
当に多かっですね。沿線住民の意識として当然かもしれ
ませんが。ちなみに急行運転の弊害といえるかもしれま
せんが、高齢者が踏み切りを渡りきれず惹かれてなくな
る事故が最近等々力駅構内でおきています。急行車両と
聞いています。
投稿情報: 緑の鏡 | 2010/10/05 03:32
緑の鏡 様、コメントありがとうございます。
>ただし当時アンケートでは急行反対は本当に多かっですね。沿線住民の意識として当然かもしれませんが。
↑
仰せの通り、等々力駅利用者が急行停車あるいは急行運転反対という気持ちはよくわかります。が、それを東急電鉄の側に立ったような反対理由(急行運転の効果は数分の短縮など)は逆効果であって、利用者視点で行うべきかなと考えますね。
お年寄りの事故については、そもそも構内踏切的な構造をそのまま存置した結果であるので、立体交差を考えないのであれば島式ホームから相対式ホームにするしかなさそうです。まったく踏切がなくなるわけではありませんが…。
投稿情報: XWIN II | 2010/10/05 21:16
自由が丘第二踏み切りは田園調布と渋谷を結ぶバスが通過するので交通量が多いので立体化する必要があるかもしれませんが、すでに人家が密集しており東横線と立体交差しているので、電車を止めないで工事をすることになるのでかなりの難工事が予測されます。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/11/03 19:37