一回だけのつもりが、私自身も予想外の三回連続となった(苦笑)。すべては誤った先入観の成せる業と言うわけだが、結果として田園都市株式会社が申請した第二期線、今日の東急目黒線(目黒~大岡山間)の初期計画がどういうものだったかを確認するにはよかったとなるだろう。今回は、初期の計画線と現在の東急目黒線及び東急大井町線との比較図を作成したので、まずはそれを見ていこう。
緑色が現在の路線、桃色が田園都市株式会社の第二期申請線と当時の認可線(第一期線)を表している。橙色の点線は、大正期の市町村界を示し、黒色の線は山手線と東海道線である。前回指摘したように、大岡山駅は現在よりも北北東方向に約100メートル離れた場所にあり、現在の東急目黒線とは概ね平行しているが、北側に位置していることが確認できた。
これが認可後、続いて工事施工認可申請までの間にほぼ現在線となるのだが、計画線が南にずれた理由は何だろう? 色々思いつくが、一つに池上電気鉄道の計画線とのからみがあったのではないかと考えている。
一方、第一期線(既認可線)の方は、大井町駅への接続方法が異なっているため、東急目黒線と第二期線以上に乖離したものとなっている。面白いのは、仮駅名の設定で大岡山駅に続く「千束」駅は、未だ「洗足」にあらず、千束となっている。駅の場所は今日の香蘭女学校の敷地内であり、場所的には「千束」と隣接はするがまったく関わりのないところにこのネーミング。それを言うと大岡山駅の場所(大岡山駅の場所が千束というべき)も、千束駅の先にある松原駅も隣接する地名を拝借したもので、この頃から駅名の付け方はその土地の名前でなく、周辺にある有力な地名を採用したという当時からありがちなパターンを踏襲していると言えるだろう。
では、最後にこんな疑義を。大井町駅については、東海道線の電車専用駅として開設された当時から「大井町」駅という名称で、現在に至るまで駅名変更はなかったはずだが、どういうわけか東急大井町線の前身となる鉄道計画において、仮駅名が「大井」駅となっているものがほとんどである。なぜ「大井町」駅に接続する駅を「大井」駅としたのだろうか。もちろん、開業時には「大井町」駅となっているが、この第二期線の申請も含め、これ以降の申請関係書類も「大井」駅となっているのはなぜか? こんな疑問を呈しつつ、今回はここまで。
初期と現在のルートを比較して気付いた点を述べてみると、
前者が碑文谷村であるのに対して後者は平塚村を主として経由している。
大井町線は品川町と馬込村ではなく主として平塚村を経由している。
耕地整理組合との関係があるのでしょうか?
前者の目黒駅からのルートが行人坂あるいは権の助坂を経由してるが、現在のドレメ崖線に沿って削ったルートの方が施工が楽ではないでしょうか?それでも私鉄のターミナルとしては異例の急勾配です。(その後緩和されましたが)
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/06/28 11:56