もともと建設時には建設費等の関係から地表を走っていた鉄道が、連続立体交差の必要性から地下に潜ったり、あるいは高架上に上ったり等、様々な変遷を経ることが多いのが都市を走る鉄道の宿命ともいえる。これは、ローカル線然とした東急池上線においてもその宿命から逃れることはなく、最近では戸越銀座駅~旗の台駅間の地下化工事が行われ、途中駅の荏原中延駅が地下駅になったことが記憶に新しい。
このほか、東急池上線では戦前に第二京浜国道(当時は新京浜国道)をまたぐため、千鳥町駅~池上駅間の一部が土手を築いて高架化したが、これ以外にもう一つ忘れてならないのは旗の台駅~洗足池駅間の環七通りを潜るための地下化工事だろう。東京オリンピック開催の都市機能整備の一環として、環七通りの拡幅工事は至上命題として実施された──が、この区間の東急池上線の地下化は東京オリンピック開催には間に合わず、昭和40年代前半まで持ち越された。
この地下化工事の結果、長原駅は地下駅となり、長原駅から旗の台駅間には踏切だったところが、線路と道路との高低差によって陸橋が作られたが、環七通りは別格として残りの二つの陸橋は歩行者が通行できるくらいの歩道橋レベルのものとなっている。まずは一つ目の橋、その名も「旗の台一の橋」に行ってみよう。
橋の上から旗の台駅方面を眺めた(ゼンリンの電子地図で示すとここ)。この付近はかつては地表を走っていたので、こちら側から見れば、旗の台駅方面に下っていくようになっていたと思われる。遠くに二つの踏切が見えるが、遠くの二つ目の踏切は旗の台駅すぐ南側のものである。
「はたのだいいちのはし」と橋名標。片側は「旗の台一の橋」と表記されている。「昭和43年11月竣功」とあるので、これより以前に池上線の線路切り下げは実施されたのだろう。
旗の台一の橋を南側から見た。ご覧のように階段があるが、北側にはさらに段数の多い階段がある。つまり、この付近は北側下りの地形であって、歩道橋も桁上げしないと電車の通行に支障が出るということだろう。この橋を挟む道路は自動車一台通行可能な幅があるが、ここが階段状のため、歩行者や自転車天国といった感じがする。
続いては、旗の台一の橋から長原駅寄りの、旗の台二の橋上から環七通り方面を見た(ゼンリンの電子地図で示すとここ)。環七通り方面は交通量が多いためか、法面の両側を支える構造物が確認できる。このトンネル状の空間を抜ければ、すぐに長原駅がある。
「はたのだいにのはし」の橋名標。一の橋と違い斜めになっていないことからわかるように、この橋は階段状になっておらず、地面とほぼフラットにつながっている。この橋も昭和43年11月竣功となっている。
とはいえ、道幅は狭く、軽自動車すら通ることが困難だろう。ここは東京都品川区と東京都大田区の区境が走っており、写真左側が品川区旗の台五丁目、右側が大田区上池台一丁目である。
といったところで、今回はここまで。
鮮明な写真、ありがとうございます。
実家に近過ぎて、なかなか写真を撮る機会がないので、これはとてもありがたいです。
「旗の台一の橋」ですが。
私の実家一同、及び小学校の仲間は、この橋を「どんどん橋」と呼んでおります。
この名前は、メジャーなのか?
それとも、我が身内だけの呼び名なのでしょうか。
投稿情報: りっこ | 2010/06/06 16:10