なかなか面白い本が出た。「図説 鉄道パノラマ地図」(編者:石黒三郎+アイランズ。発行:河出書房新社)というのがそれで、鉄道会社が昭和初期に作成した「沿線案内」を紹介したものである。この手のものが1冊にまとまるのはそうないだろうからすぐさま購入したが、読み始めていくと、いくつか気になる点が出てきた。特に、地域歴史研究で取り上げている池上電気鉄道や目黒蒲田電鉄がらみのものは、やはり誤りが多いことに気付き、このことは他の部分においてもそういうものなのかもしれないという疑いを抱かせる(笑)。ま、それはともかく、気になる点を目黒蒲田電鉄に関するところから記していこう。
まず、「関東⑦ 東急東横線 東急目黒線」(32~35ページ)から取り上げる。本書32~33ページ所載の「東京横浜電鉄目黒蒲田電鉄沿線案内」は大きな特徴、というか問題を孕んでいる。それは、近時開業する二子玉川線(現 東急大井町線の一部)の扱いで、未開業であるにもかかわらず大井町駅~二子玉川駅間が完成したように描かれていることである。この図がおかしいことは、以下の点を列挙するだけで十分だろう。
- 目黒蒲田電鉄二子玉川線(大井町線)の「九品仏駅」が「九品仏前」駅と計画時点での仮駅名となっている。
- 中丸山駅の記載がない。
では、本図にかかわる部分の歴史を確認しよう。
- 昭和2年(1927年)7月6日 大井町駅~大岡山駅間が開通。目黒蒲田電鉄の新駅として、大井町、戸越(現 下神明)、蛇窪(現 戸越公園)、中延、荏原町、東洗足(現 旗の台)の各駅が開業。
- 昭和3年(1928年)8月1日 目黒蒲田電鉄、武蔵小山駅~洗足駅間に新駅として西小山駅が開業。
- 昭和3年(1928年)8月3日 東京横浜電鉄、高島駅を本横浜駅と改称。
- 昭和3年(1928年)10月10日 目黒蒲田電鉄、東洗足駅~大岡山駅間に新駅として池月駅が開業。
- 昭和4年(1929年)10月22日 東京横浜電鉄、九品仏駅を自由ヶ丘駅と改称。
- 昭和4年(1929年)11月1日 自由ヶ丘駅~二子玉川駅間が開通。目黒蒲田電鉄の新駅として、自由ヶ丘(現 自由が丘)、九品仏、等々力、上野毛、二子玉川の各駅が開業。
- 昭和4年(1929年)12月25日 大岡山駅~自由ヶ丘駅間が開通。目黒蒲田電鉄の新駅として、中丸山(現 緑が丘)が開業。
以上のように、大井町線 大井町駅~二子玉川駅間が全通するまでに約2年の歳月を要し、計3回に渡って部分開業を行ったことがわかる。この間、駅名や新駅の開設などの異動もあり、本図が計画時点で作成したとしか思えない記載と疑うに十分であることがわかるだろう。さらに、「九品仏」駅は昭和3年(1928年)後半の高架化工事の後には「衾」駅と改称する予定であり、これを新興住民が嫌った結果が「自由ヶ丘」駅への改称のきっかけであったので、ほぼ確実に昭和3年(1928年)中のものだとなるだろう。もっとも池月駅に関する記載は、開業前か開業後かは定かでない(大井町線の記載そのものがいい加減なため)ので本図が作成された時期は、昭和3年(1928年)10月10日以降と定めるわけにもいかないと考える。
よって、多数あるはずの「東京横浜電鉄目黒蒲田電鉄沿線案内」のうち、よりにもよって本図を取り上げたのは、著者の失敗だったと思えるのである。無論、本図の誤り(あるいは歴史的経過)を指摘するのが目的であれば、むしろよくこの図を取り上げたとなるが、本文中にはまったく見えないことから、よくご存じでない著者が無批判に取り上げたと推測できるのである。
では、個別に誤りや気になる点について挙げていこう。
33ページ「発行年は記載されていない。高島町まで延伸したのが昭和3年5月(同年8月に本横浜と改称)、また上図の九品仏駅は昭和4年10月に自由ヶ丘と改称するため、昭和3年8月~4年10月までの発行と推測される。」
昭和3年中に新規開業した西小山駅及び池月駅の記載があるので、二子玉川線が計画時のものであるにしても昭和4年10月まで引っ張られることはないだろう。また、34ページに「昭和3年のものと思われる」と発行年についてふれているので、この表記は改めるべきと考える。
34ページ「渋沢は会社の鉄道部門を分離させ、目黒蒲田電鉄を設立する。」
どうだろう? 確かに大渋沢(渋沢栄一)は、表向きは引退しており代表権等は持っていなかったが、実際には大渋沢の承諾無しには「社の大きな決定」はできなかったのは確かだろう。だが、事業そのものにそこまで大渋沢がかかわっていたかといえば、これも疑問符が付けられる。とはいえ、短文の中ではこう表記せざるを得ないのもわかるので、気になる点として掲げるにとどめる。
34ページ「一方、東横線は大正15年、武蔵電気鉄道が丸子多摩川(現・多摩川)-神奈川を開業する。」
これは完全な誤り。正しくは、武蔵電気鉄道ではなく東京横浜電鉄。専務に五島慶太が就任する時点をもって社名が変わることを解していれば、誤りようのないミスといえる。
34ページ「祐天上人の開基。浄土宗の名刹。」
祐天寺の説明だが、正確には祐天上人の開基ではなく高弟の祐海上人が創建した。ただし、祐海上人が祐天上人を開山と仰いだため、祐天寺の名がある。そこまで指摘するか、といわれそうだが。
34ページ「実際は目蒲電鉄「不動前」が近いが、案内では祐天寺駅を最寄駅としている。発行時は、東横電鉄が開通した直後であったためであろうか。」
目黒競馬場についての説明である。が、単に地図の上から遠近を問うている素人的発想で書かれた文でしかない。これを現在でいえば、東京(府中)競馬場の説明において「東京競馬場の最寄駅は、府中競馬正門前駅、府中本町駅、そして是政駅であり、この3駅はほぼ等しい時間で競馬場まで着く」というようなものである。地図上(ゼンリンの地図ではここ)では、府中競馬正門前駅、府中本町駅、是政駅のいずれも東京競馬場から近く、ほぼ等距離に見える(競馬場のコースまで)が、実際に客が利用するのはいわゆるオケラ街道からスタンド(客席)までで、馬が走る場所がいくら近くても、それを最寄りとはしない。要するに競馬場施設として見れば、目黒競馬場は不動前駅側からでは是政駅と同じように近いのだが、実際に客が入るスタンドまでは絶対的に遠い(ぐるっと回っていかなければならない)。目黒競馬場の構造を理解していないだけでなく、単に地図上からの遠近だけでの安易な判断であり、素人的発想としかいいようがないのである。
といったところで、今回はここまで。次回は、引き続き本書の誤りを池上電鉄に関する部分で取り上げる予定である。
おもしろかったです!
特に、最後の
>「東京競馬場の最寄駅は、府中競馬正門駅、府中本町駅、そして是政駅であり、この3駅はほぼ等しい時間で競馬場まで着く」
この部分。
実はワタクシ、競馬大好き人間でして、5月は毎週、東京競馬場出勤だなぁと
σ(^◇^;)。。。。。。。
だって大きなレースが、目白押しなんだもーん。何で東京でばかりやるのか。お財布が寂しくなってくると、そんな逆恨みまでしちゃいそうです。頑張らねば(*>ω<)o
そんなワタクシですが、先日初めて!「是政駅」も、競馬場御用達駅なんだと知りました。(競馬歴30年なのに(;^_^)
スタンドから、トンネルをくぐり、内馬場に出て、ぐるっと散歩したら、一番端に「西武線 是政駅方面」 w(゜o゜)w
こんなところにも、競馬場出入りの門があったんだ!
是政駅から来る人、いるんだぁぁ 競馬場まで遠いのに。て感じです。
東京競馬場の「オオケヤキ」と巷間されている木(実は榎)の至近距離に、井田一族の墓、是政塚がありますよね。是政特別もある (^_^)v いやいや。。。
投稿情報: りっこ | 2010/05/08 10:29
鉄道パノラマ地図
東急に限りませんが、昔の鉄道パノラマ地図はロマンに満ちていて度の楽しみの夢が膨らんで行くような魅力に満ちていました。ロートレックではありませんが単なる宣伝媒体ではなく一種の芸術的な香りすら感じる作品もあります。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/18 19:58
コメントありがとうございます。10日以上も経過してのコメント、ご容赦願います。
>是政駅から来る人、いるんだぁぁ 競馬場まで遠いのに。て感じです。
是政駅の一つ手前は競艇場なので、西武の方は競馬場と言うよりも競艇場だと思うのですが…。乗り換えの都合を考えてもなかなか是政駅ではないような気もしますが、バランス感覚のたまものかも知れません。
>東急に限りませんが、昔の鉄道パノラマ地図はロマンに満ちていて度の楽
しみの夢が膨らんで行くような魅力に満ちていました。
大正~昭和初期では、大都市近郊への鉄道を利用した旅行というのは、マイカーというものが一部特権階級のみに限定されていたこともあって「当たり前のレジャー」だったのでしょうか。そう思えば、旅行会社のパンフレット然となっているのも頷けるどころか、当然かと思いますね。
投稿情報: XWIN II | 2010/05/19 18:41