前回「調布大塚駅は、本当に昭和8年(1933年)に廃止となったのか?」の事実上の続き。「続~」としてもよかったが、あえて変えてみた次第。
さて、調布大塚駅の廃止についての疑義を前回提示したわけだが、国立公文書館アーカイブによる情報によれば、以下のような公文書があることが確実なようである(文書を見れば確実である、と書くところだがあえて)。
もし、調布大塚駅が昭和8年(1933年)に廃止されたとするなら、そして雪ヶ谷駅と統合(合併)して雪ヶ谷大塚駅になったとするなら、この「雪ヶ谷停車場位置変更及び調布大塚停車場廃止の件並びに線路変更届供覧」なる鉄道局の文書をどう説明するだろうか。もちろん、これは出された文書に対する局内での供覧に関してとあるように、ここに記述される「昭和10年(1935年)9月19日」にこれらが実施されたわけではない。ただ、通常この手の文書が出された後(当日以降)に実施されることがほとんどなので(例外の一例として開業直後の池上電気鉄道がこれにあたるが)、少なくとも昭和10年(1935年)頃までは調布大塚駅は生き残っており、また雪ヶ谷駅も雪ヶ谷大塚駅に改称されることはなかったと読める。
これについては、以前に当Blogにおいても取り上げた「東急の駅 今昔・昭和の面影」という書籍に大変参考になる資料が掲載されているので、一部分引用してご紹介する。
これは本書の見開き(表紙側)に掲載される沿線案内図で、目黒蒲田電鉄が池上電気鉄道を合併後、奥沢線廃止前の期間に発行されたものと思われる(前回掲載した沿線案内より前)が、ここにも調布大塚駅は掲載されている。つまり、昭和8年(1933年)に調布大塚駅は廃止になったようには書かれていないのである。
そして本書の見開き(裏表紙側)には、過去の切符コレクションが掲載されており、ここには「雪ヶ谷→大崎広小路 五反田」と記され、昭和16年(1941年)8月31日の日付が刻印された切符が掲載されている。さらに同ページには、
昭和16年(1941年)頃の車内販売用乗車券も掲載されており、ここでも「雪ヶ谷」表記のままである(さすがに調布大塚駅は未掲載)。
以上、これらから考えれば、昭和8年(1933年)6月1日に調布大塚駅が廃止され雪ヶ谷駅と統合(合併)し、雪ヶ谷大塚駅と改称したとする東京急行電鉄50年史の記述は、いったい何を根拠としたのか。こういう疑義を呈しつつ、今回はここまで。
東急の駅今昔の車内販売切符は懐かしく思いました。乗り越しの時に車掌を呼び出して切ってもらったことを思い出しました。結論として移転後の雪谷駅が何時雪が谷大塚と改称されたかであると思います。国立公文書館のアーカイブの検索は特に大東急に統合されまた戦後分割されていますので探し出すのに苦労します。前掲の雪が谷大塚の行き先板を基礎として昭和18年から20年あたりに絞り込んでみようと思いますが、いまのところ見つかっていません。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/27 09:56
雪が谷大塚駅追補
雪谷大塚町は住居表示改正の後で出来た町名ですが、駅の名前に影響されtのでしょうか?調布大塚では古くさいからでしょうか?
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/27 10:12
雪谷大塚駅に改称された時期
種々のコメントでどこかの総理大臣の様に理論が迷走して申し訳ありませんが、行き先板が示された2枚の写真を基にして検証してみようと思います。
1. 2両のすれ違う池上電鉄と東横電鉄の車両が撮影されてる写真ですが、合併後であることは言う迄もありませんが、東横電鉄の車両が池上線に導入された背景として、以前写真にしばしば登場する主力選手であった元国電の10両の木造ボギー車の鋼体化が行われたためにその穴埋めのためですので、その辺の時期を検証してみればその時期が推定できるとおもいます。
2. 以前にコメントしたように雪谷大塚の表示がある電車のテールランプが1個ですので占領軍の指示により両側2個に変更されていますので昭和20年でも終戦前かもしれません。
以上の点を踏まえてその時期に絞り込んで検証してみようか思います。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/29 12:13
国立公文書館の平12運輸02167100件名026の新奥沢線廃止に対する代替え輸送の件を調べましたが調布女学校の生徒の通学への影響を考慮して調布大塚と田園調布の間に連絡バスを新規に追加し、旧中原街道から桜坂の手前で六間道路へ右折してから調布学園バス停あたりで環八の側に右折し学校の前を通って再び六間道路に戻って田園調布駅東口に向かうルートを取っています。調布女学校には城南地区の有力者の子女が多かったせいか、鉄道省は不採算を認めつつも代替え輸送手段を条件としています。一私立中学のためにルートを設けることは異例でしょう。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/31 21:00
連絡バス
前掲の昭和13年の地図によると中原街道に沿ってバス溜まりのスペースが雪谷駅前に設けられて連絡バス発着場と表示されていますので調布大塚駅廃止後に連絡バスのサービスを継続するために設けたものと思われます。前に調布大塚駅を連絡バスの発着場としたのは狭い中原街道の混雑を避けるためではないかと思います。私の記憶では中原街道の拡張前の混雑は大変なものでした。昭和12年には日中戦争が勃発し、英米の経済封鎖が激化して皮肉なことにガソリンの入手が困難になり混雑は改善されました。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/06/01 19:37
コメントありがとうございます。
>結論として移転後の雪谷駅が何時雪が谷大塚と改称されたかであると思います。
↑
仰せの通りで、これがいよいよ最後の残された謎となっています。ただ、いかんせん戦時中のことなので、正確な情報が残っていないと思われるのが厳しいところではあります。
>雪谷大塚町は住居表示改正の後で出来た町名ですが、駅の名前に影響されtのでしょうか?調布大塚では古くさいからでしょうか?
↑
古くさいかどうかは当事者でないので計りかねますが、大田区の住居表示は駅名を採用する傾向が高いように思います。ただ、採用されない地名だった駅名もありますが…。例:蓮沼、沼部、長原、雑色。
>一私立中学のためにルートを設けることは異例でしょう。
↑
奥沢線廃止時期からみると、代替バス対応は形だけでも必要だったように思います。あまりに早急すぎるという点から、ではありますが。
>前掲の昭和13年の地図によると中原街道に沿ってバス溜まりのスペースが雪谷駅前に設けられて連絡バス発着場と表示されていますので調布大塚駅廃止後に連絡バスのサービスを継続するために設けたものと思われます。
↑
ここは今でもバス溜まりとなっていますね。かつての奥沢線ルートだったところを中原街道に接道している好条件から、分譲することなくバス溜まりにしたのかと。
投稿情報: XWIN II | 2010/06/02 07:30
XWIN II様
コメント有り難う御座います。Wikipeidaによれば昭和18年12月に雪谷大塚に変更されたとなっています。出典は明記されていませんが、テールランプ一個の電車の写真がある程度これ裏付けています。参謀本部の地図を含めてこの時期の情報は極端に少ないので調査は困難です。関連する地図と言えば戦災復興院の1947年5月の地図では単に雪谷と記されており、同時代の日本地勢社発行の東京都区分地図帖には雪谷とだけ記されており、同年度に2回発行されていますが一方の地図は久が原大塚と書かれいますがこれは論外です。戦後の混乱期ですので当てにはなりません。偶然に私は原本を持っておりますが紙質が悪く劣化が進んでいます。索引に記載されてる駅名で興味深いものを挙げれば,第一師範、都立高等前となっていますが、桐が谷と道塚はありません。古い名簿の昔の町名から場所を探す時に利用しています。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/06/03 09:04
名称変更の時期
戦中派として昭和18年と言う年を考えると、大日本帝国の危急存亡の時に、ただでさえ物資が不足している時に切符用の紙の浪費や女子迄運転手に動員している人手不足のときに不要不急の名称変更を行うことが戦争継続や戦意の高揚に役立つのか疑問を感じます。終戦直後に復興土地住宅協会により発行された田園調布の地図でも単に雪谷です。ただこの地図には品鶴線の沼部の鉄橋の手前から下丸子の三菱の戦車工場迄の引き込み線が記載されています。この線が何時撤去されたかは記憶が定かでありません。朝鮮戦争で米軍戦車の修理を行ったかも知れませんが確信がありません。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/06/03 19:41
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
>Wikipeidaによれば昭和18年12月に雪谷大塚に変更されたとなっています。
↑
あてにならないWikipediaということで、以前にも当Blogで取り上げたことがありますが、本件についてはなぜ12月なのかという根拠を見出せていません。以前のBlog記事で書いたように、同時期に駅名変更をした例(府立高等→都立高校)からこの時期ではないかと予想しました。また、昭和19年には綱島温泉を綱島に改名した例もあるので、戦中とはいえ、まったく改名等がなかったとはならないかと思います。
>関連する地図と言えば戦災復興院の1947年5月の地図では単に雪谷と記されており
↑
このあたりの地図も戦前発行のものに一部手を加えている(東京35区→23区等)だけで「直し漏れ」が多いものがほとんどで、特に2万5千分の1以上のあらいものは不確かな情報が多いです。なので、書き改めたものの信用はそれなりであっても、書き改められていないものについては何とも言えないところかと。
投稿情報: XWIN II | 2010/06/04 07:15
雪谷大塚への改称時期
日本地図社の昭和20年12月の東京近傍の罹災地図によると雪谷大塚となっており駅前は焼けていました。ご説のとおり戦時中でも改称されており、小生の考え過ぎでした。それにしても日本地図社はきちっとUPDATEして他の地図をぱくっていないのに感心しました。あとは官報か新聞ぐらいでしょうか。時刻表は当時のは見当たりませんでした。
諏訪分
思い違いです。資料を持っていましたのでトピックの件は取り下げて下さい。申し訳ありませんでした。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/06/06 18:50
XWIN II様
突然古いブログを取り上げて申し訳ありませんが、2009年6月14日の初代雪谷駅云々に関して、工事起点が3マイル72チェーンとなっていますが、国立公文書館で閲覧した複線化に伴う腕木式信号機の設置位置に関する図面で雪谷駅が3マイル70チェーンとなっています。これは駅の中心点を示しているものと想像しますので貴殿の説が正しいことを立証しています。崖線の可能性はゼロであると思います。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/06/10 11:16