これまでの「池上電気鉄道 VS 目黒蒲田電鉄」とは趣向を変えて、両社の直接対決というよりも両社の対決の余波を受け、「千束」と「洗足」のいずれが正当なのか(結論は両方共に正当である、のだが)に関して、もともとは「千束」であったものが江戸後期の日蓮上人袈裟掛け松伝説や、池で足を洗った伝説が流布されるうちに「千束」の大池は、日蓮上人が池畔の松に袈裟を掛け「足」を「洗」った「池」という戯れ言が転じて、「洗足池」と称されるようになった。地元(農民)は江戸市中で「洗足池」などと書かれていることなどほとんど知ることなく、江戸後期の文化人が記した「洗足池」という文献等により、この表記が普及し、明治初期には少なくとも東京市中においては「洗足池」という表記が一般化していたと考えられる。その根拠は、明治10年代に作成された2万分の1迅速図に、「洗足池」と書かれていることから確かであろう。(なお、池の右側に「柳松庵」とあるのは「御松庵」の記載誤り。)
また、江戸後期に出版された江戸近郊の遊覧案内や、明治以降に刊行された東京郊外案内(旅行記)のようなものには、ほとんど例外なく「洗足池」と紹介され、一部には「千束池」とも書くとしたものもあるが、あくまで別表記(並記)扱いであり、「洗足池」という表記が一般的だとされていたのである。これは、この地に別荘を営んだ勝海舟が「洗足軒」と名付けたことからも明らかである。
一方、「千束」池はというと、もちろん地元の表記としては「千束」以外にないわけで、馬込村の飛び地として「千束」は健在だったが、明治22年に大規模な町村統合が行われてからは、若干意味合いが異なってきた。それは、馬込村は大村だったので単独で一村を形成したまではよかったが、原則飛び地を認めないという方針から、「千束」を馬込村にとどめておくにはこれをどうにかしなければならなかった。その解決策が、「千束」を馬込村の飛び地とならないような工夫、つまり地続きにするという方策だったのである。これは、馬込村本村と飛び地「千束」の間にあった池上村の一部を馬込村に編入するという形(下図参照。ゼンリンの電子地図ではこのあたりにあたる。場所のヒントとしては、字平塚の一部と記した左上十字路が今日の「長原駅入口」交差点。あと、中延村との境界線が今日の品川区と大田区の区界)で地続きとさせたが、この編入された地区は東京府荏原郡池上村字平塚(現在の東京都大田区上池台一丁目の一部)の1~7、13~25、30番地にあたり、これ以降、馬込村内には1番地が二つ存在することになった(荏原郡下の合併村は、複数の村を統合したので大字単位で1番地は複数ある)。
一方、一部と割譲したような形となった池上村は、合併によって新たな池上村(池上村、雪ヶ谷村、下池上村、堤方村、桐ヶ谷村、道々橋村で構成)となり、馬込村からは洗足(千束)池の池面すべての権利を得るとした(これが今日まで引き継がれる、東京都大田区における千束特別出張所と雪谷特別出張所の管轄の境界線に生き残っている)。江戸期まで続いていた「入会地」の概念は、明治初期の地租改正によって否定され、この町村合併によって名実共に失われたといっていいだろう。それはともかく、この(新)馬込村誕生によって「千束」は飛び地でなくなり、あえて「千束」という単位で扱う必要がなくなったためか、次第に公式(行政)名として「千束」という名前は見えなくなっていくのである(地元ではそんなことはなかっただろうが…)。馬込村飛び地としての「千束」が見えなくなる一方で、「洗足池」という池名は勝海舟の別荘地、東京近郊の景勝(観光)地としての名声は高まり、ここに「千束」から「洗足」への移行が確認できるのである。
明治から大正に時代は移り、この地に一大転機が訪れる。それが明治経済の重鎮、渋沢栄一の発起による田園都市計画である。きっかけは畑弥右衛門が渋沢栄一に働きかけを行い、それが東京府荏原郡の碑衾村、平塚村、馬込村、玉川村、調布村付近だった。大正3年(1914年)には、地元の村長ら名士を飛鳥山の渋沢邸に招待し、田園都市計画についての協力を求めるなど、明治期に事業を推進し続けた渋沢栄一の動きは速かった。しかし、田園都市計画は営利事業でなく社会事業であるとしたことや、引退した自身が直接かかわることを否定したことなどから、そこから先は多少の時間を要し、田園都市株式会社の設立は大正7年(1917年)までかかった。この間、まったく何もしていなかったわけではなく、地元の地主たちとの交渉を進め、事業用地買収の下話は進められていた。ここで、田園都市側に予期しないアクシデントが発生する。これこそが池上電気鉄道との最初の対立であったのだった。
以前に私が取り上げました南北千束町の不自然な形の経過が分かりました。有り難う御座います。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/03 10:33