10日ほど前、洗足田園都市に関する疑問(列挙型)という記事において、以下のような疑義を列挙した。
- 洗足住宅地第一期分譲地は、田園都市株式会社が耕地整理を一人施行で行ったとされるが、荏原郡碑衾村・荏原郡平塚村、荏原郡馬込村の3村それぞれにまたがっていたにもかかわらず、関連資料が荏原郡碑衾村にしか見られない。これはいかなる理由によるのか。
- 洗足住宅地第二期分譲地は、荏原郡平塚村のうち大字中延のみであり、ここは平塚第二耕地整理組合の組合地に含まれているように思われるが、実際は含まれていたのか含まれていなかったのか。
- 「東京急行電鉄50年史」や「街づくり五十年」(東急不動産社史)には、洗足田園都市に関する記述はあるが、どちらも資料不足によってなのか調布田園都市(多摩川台。田園調布)の記述よりもかなり薄い内容である。これは本当に資料不足なのか、あるいは社内的な理由で記述することを憚られていたのか。
- 洗足田園都市を通過する鉄道計画及び駅(停車場)計画の変遷について、一部調査し切れていない部分がある。一説によれば、洗足五叉路(現在の小山七丁目交差点)辺りに駅ができる予定だったとあるが、収集した資料にはそれを見出すことができない。これは事実なのか。
- 洗足住宅地第一期と第二期の間に存在する小規模住宅群(現在の東京都品川区旗の台六丁目1番及び2番ほか)は、どういった経緯で誕生したのか。また、この土地を田園都市株式会社が買収できなかった理由は何か。
- 社団法人洗足会の戦後にかかわる歴史。おそらく、戦時中に隣組制度によって町内会が再編成された際、洗足会はその機能を事実上失い、戦後になってこれもおそらく解散命令を受けたと思われる。その後、復活?した経緯、洗足会館等の財産の行方(そもそも社団法人化された理由は、田園都市株式会社が譲渡された資産を引き継ぐためであった)や、3区に分断された洗足会の位置づけ、現行の町内会(洗足二丁目町会、小山洗足町会など)との関連など、社団法人田園調布会との違いについても。
- 洗足住宅地の道路パターンなどを設計したのは誰か。
以上の疑義のうち、この10日ほどの間にいくつか解決できたのでご紹介しよう。
洗足住宅地第一期分譲地は、田園都市株式会社が耕地整理を一人施行で行ったとされるが、荏原郡碑衾村・荏原郡平塚村、荏原郡馬込村の3村それぞれにまたがっていたにもかかわらず、関連資料が荏原郡碑衾村にしか見られない。これはいかなる理由によるのか。
関連資料そのものではないが、大田区史下巻442ページに耕地整理組合一覧に関するデータがあり、ここに「田園都市第一」として「事業面積98.0ha、事業費12万3千円」との記載があるが、これが洗足住宅地第一期分譲地の耕地整理と一致する。つまり、関連資料は荏原郡馬込村(現 東京都大田区の一部)にもあったわけで、碑衾村以外にも見出すことができたことになる。ここでわかったことは、馬込村だけで98.0haとはならない(多すぎる)ので、98.0haとは碑衾村、平塚村と合わせての事業面積であり、耕地整理組合の許認可は道府県が担っていたことを考慮に入れれば、東京府への申請資料を各村が参照したのではないかと考える。以上により、疑義が解消しただけでなく、耕地整理組合の許認可主体が東京府であったことから、各村にまたがる耕地整理であっても組合事業としては単体でなされたと理解できた。
洗足住宅地第二期分譲地は、荏原郡平塚村のうち大字中延のみであり、ここは平塚第二耕地整理組合の組合地に含まれているように思われるが、実際は含まれていたのか含まれていなかったのか。
これについては、当blogをご覧いただいている方から貴重な資料(写し)をご提供いただき、この疑義は完全に解消できた。その資料とは「平塚町第二耕地整理組合第一工区確定図」と称するもので、この図には換地処分時に確定した新地番が描かれており、当該部分を見ると、
のように整然とした区画に分かれる中、細かく分割されているものが見えるが、これこそ洗足住宅地第二期分譲地とほぼ重なる区域なのである。他の区画は大雑把に言えば、1街区(道路に四方囲まれた区画)が1~4程度に分筆されているが、田園都市株式会社の分譲した街区はそうではなく、また狭いものとなっている。このことから見えるのは、耕地整理組合の事業地に含まれてはいたが、実際には耕地整理組合が耕地整理したわけでなく、既に区画・分譲されたものに対して、後付けで耕地整理組合事業地に組み込まれたということである。つまり、平塚町第二耕地整理組合が示す最低限の減歩率をクリアし、耕地整理組合の事業と一体化した形を採ったということである。
ここで新たな疑問が当然わき上がってくる。洗足住宅地第一期分譲地においては、田園都市株式会社が単独(一人施行)で耕地整理組合を立ち上げ耕地整理事業を実施したのに、なぜ第二期においてはそういう形を採ったのか、である。まぁ予想が付かないわけではないが、この話を長くすると本論から思いっきり逸れるので、この辺にとどめておこう。
こちらは耕地整理前、田園都市株式会社が分譲する前の大正11年(1922年)時の地図。字大原北とある左側(西側)付近が洗足住宅地第二期分譲地にあたるが、当然のことながら耕地整理(地番整理)前後とは大きく変わっていることを確認できよう。
洗足田園都市を通過する鉄道計画及び駅(停車場)計画の変遷について、一部調査し切れていない部分がある。一説によれば、洗足五叉路(現在の小山七丁目交 差点)辺りに駅ができる予定だったとあるが、収集した資料にはそれを見出すことができない。これは事実なのか。
五叉路部分かどうかははっきりしないが、公文書資料を再度洗い直したところ、現在の東急目黒線の線形は工事施工前に変更があった結果によるもので、施工前は若干南寄りの計画だったことが確認できている。推測するに、これは洗足住宅地計画の中心点が北寄りに動いたこと、つまり現在の品川区旗の台六丁目1、2番付近を田園都市株式会社が買収できず、洗足駅を北寄りに異動させる必要が生じたからではないかと考えている。この北側に異動する前の駅計画が洗足五叉路付近であったのなら、これは事実となるだろう。
以上、7つの疑義のうち3つについての進捗状況についてお伝えした。といったところで、今回はここまで。
すごいですねぇ
さすがですねぇ
私が見ていては、単なる地図。
それが、XWIN II様の脳内分析により、アラ不思議。
理路整然とした説明がついて、すんばらしい「事実証左」としてあらわれてきます。
何だかとっても嬉しくなってしまいました。
ちょびっとでもお役に立てたようで、幸いです!
投稿情報: りっこ | 2010/05/23 19:39
素晴らしい図面ありがとう御座います。東南の角の旗の台6-8-10パークハウス旗の台6丁目のところは以前大邸宅であり噴水がありました。友人の話によると某伯爵邸であったとの話です。インフラだけ田園都市会社が行って当初から所有されていたのでしょうか。洗足会にここだけ加入されていません。町会地図でも除外されています。もっとも強制加入ではないので当時の役員は調整に苦労されたことが会報に掲載されてたことを思い出しました。更なる調査結果を楽しみにしています。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/23 22:41
コメントありがとうございます。
りっこ様
こちらこそ貴重な図面をご提供いただき、どうもありがとうございます。
今回ふれた部分は1stインプレ程度に過ぎませんので、今後は他資料とも合わせて分析することで、さらに「深い」議論を展開していく予定です。
木造院電車両マニア様
パークハウス旗の台の部分は、最初から田園都市分譲地ではなかったようです(この区画図は洗足会加入者と限定したものではないため)。また、インフラについては第一期はすべて田園都市単独だったようですが(一人施行)、第二期については耕地整理組合に入っている以上は、共通で行った部分はあったかと思います(すべて横並びで田園都市と他地区が同等だったかは何とも言えない)。
投稿情報: XWIN II | 2010/05/25 07:35
パークハウス旗の台
情報有り難う御座います。庶民のレベルで伯爵様とは全く交流がありませんでしたので詳しいことは知りませんでした。北部の五叉路のお話を期待しております。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/25 08:51
実家より、またまた古文書発掘してまいりました。
祖父と、田園都市株式会社との、一番最初の契約書が出てまいりました。
なんとそれが、たった数日しかない、「昭和元年」の契約書でありまして。
昭和元年 12月28日
土地譲渡契約書
田園都市株式会社を甲とし○○(祖父)を乙とし両者間に左の契約を締結す(原文片仮名)
東京府荏原郡碑衾村大字碑文谷1466番地
田園都市株式会社 取締役社長 市原 求
これが、契約の一番最初の日付と考られます。
その後、何回もいろんな契約が締結されます。次にまた示します。
投稿情報: りっこ | 2010/06/05 18:20
上記の続きになります。
土地売買届
畑
右当社所有土地は昭和4年5月
荏原郡荏原町大字中延11△△番地○○に売渡し即日登記を了し候に付連署をもってこの段及御届候也
なお、新権利者○○に対しては既に当会社へ仮換地として交付相成候大原☆☆予定番号★★を交付相成度右土地に対する組合整理費用は従前の通り目黒蒲田電鉄株式会社に於て負担納入可仕候
昭和4年5月
買主 ○○
売主 目黒蒲田電鉄株式会社
平塚町第二耕地整理組合御中
投稿情報: りっこ | 2010/06/05 18:28
そして不思議に思ったのは。
土地譲渡契約書が昭和元年
でも、祖父が、目黒蒲田電鉄株式会社に、今で言う家のローンを払い始め、(10年賦払でした)実際に家を建てたのは、昭和4年
なんで4年も、期間が空いたのでしょうか…………?
投稿情報: りっこ | 2010/06/05 18:45
少し補足させてください。
昭和元年の土地譲渡契約書
上記の言葉に続きます。
第1条(旧漢字は新漢字に直しました)
甲は第2条以下の条件により甲の所有する左記の土地の代金を左記の代金をもって乙に譲渡するものとす (仮番号第 ★←片仮名のイロハが入っています)
東京府荏原郡中延町大字中延
地坪
代金
本土地に対する地番確定したるときは甲は乙に本契約書の提示を求め前項第1号相当欄にその地番を記入するものとす
投稿情報: りっこ | 2010/06/05 20:48
売渡証書
一金 ◆◆円也
当社所有の後記の不動産に関し第三者の権利関係無き事を保証し前期金額を以って貴殿に売渡し代金正に受領仕候処実正也為後日売渡証書仍而如件
昭和4年 4月30日
東京府荏原郡大崎町大字上大崎239番地
目黒蒲田電鉄株式会社
会社を代表すべき取締役 五島慶太
投稿情報: りっこ | 2010/06/05 20:52
りっこ様、コメント&貴重な情報ありがとうございます。
ざぁ~っと見た感じ(印象)。勘違いしている可能性も高いですが…以下に列挙しますと、
>昭和元年 12月28日 土地譲渡契約書
↑
1926年に譲渡契約書。ということなので、おそらくこのあたりの耕地整理事業は区画整理レベルで工事が完了したと考えられます。この証拠としては、大正末期に作成された荏原郡平塚町地図に道路区画が描かれているからです(もしかしたら、工事完了前にこうなるであろうと耕地整理組合の施工前図面を転記しただけの可能性もありますが)。ただし、あとで確認できますが、このときは工事完了しただけで仮換地などはこれから。つまり、この時点では予約販売的な内容だったのではないかと思います。
>土地売買届
>なお、新権利者○○に対しては既に当会社へ仮換地として交付相成候大原☆☆予定番号★★を交付相成度右土地に対する組合整理費用は従前の通り目黒蒲田電鉄株式会社に於て負担納入可仕候
↑
これは耕地整理事業中の土地売買は耕地整理組合の許可が必要なので、両者(売主・買主)がこの経緯を組合に提出して許可を求めるのは当然の流れです。また、組合整理費用は換地処分時に確定するので、費用を誰が負担するのかという話は組合にとって重要な話なので、これも明記するとなるでしょう。
>なんで4年も、期間が空いたのでしょうか…………?
↑
これだけの情報で確たる話はできませんが、推測すると、仮換地が確定するまでは何もできなかったのではないかな、と。昭和4年になって、仮換地が済み(見通しが立ち)、耕地整理組合に土地売買の許可を得ることができて、ようやく土地を購入となったのではないでしょうか。
>本土地に対する地番確定したるときは甲は乙に本契約書の提示を求め前項第1号相当欄にその地番を記入するものとす
↑
イロハ番号の由来は、このときの仮換地前の予定番号だったように読めますね。ということは、イロハ番号の付いていない大井町線北側の田園都市分譲地との違いは何かという点が焦点となります。これについてはおおよその予想はついていますが、確定できないのでいずれ記事中に取り上げていきたいと考えています。
投稿情報: XWIN II | 2010/06/06 09:29