これまで当blogにおいて、東急電鉄の前身の一つと言える池上電気鉄道関連を記事で多く取り上げているが、その歴史において目黒蒲田電鉄(東急電鉄の直系先祖)との対決は重きをなしているものである。最終的に目黒蒲田電鉄に合併されることになる池上電気鉄道だが、当然、勝者の側から書かれた歴史しか残されていないので、これをベースに様々な文献等でも語られることが多いのは周知の事実である。そしてこれを鵜呑みすることの危険性は、これまでも当blogで指摘してきたように一部に見られる「誤り」の連鎖が発生すると、それが増幅される傾向が高いことから、十分に注意しなければならないことを指摘できよう。しかし、私は池上電気鉄道が存在していた同時代人ではないので、「実際のところどうなのか?」というのは、やはり同時代体験者にかなうはずがない。なので一歩引いて、なるべく同時代各種資料を積み上げ、それらを通して私なりの考えを構築・展開し、それを既存の歴史記述とぶつけてみた結果について語っていくことを基本スタンスとする。と、まぁ堅苦しいことを書いてはみたが、あくまで基本スタンスは基本スタンスであり、実際にこのとおりに記述するわけでないことをお断りする(学術論文の類ではないから)。
さて、能書きはともかく、今回の話題は「池上 VS 本門寺道」「武蔵新田 VS 慶大グラウンド前」を次ぐ第三弾、「洗足・洗足公園 VS 洗足池」である。先の二つは、先行する最寄り駅に対し、近接した臨時駅を設置して少しでも旅客需要を奪い取ろうというものだったが、今回の洗足池にまつわる対決はこれらとは状況が異なっている。以下に、大雑把な流れを示してみよう。
- 江戸期以前より千束の大池として、地元の貴重な水源(溜池)であった。馬込村の飛び地として千束(馬込村千束)があった。
- 江戸後期より、景勝地として知られるようになる(浮世絵などに描かれる)と同時に、日蓮上人の袈裟掛け松伝説が流布され、日蓮が足を洗った池として「洗足池」と当て字され始める。
- 明治中期、町村合併により、飛び地だった千束が馬込村(本村)と地続きになる。
- 明治期に勝海舟の別荘が営まれる(生前より墓碑が作られ、没後はそこに眠る)。
- 大正初期、池上電気鉄道が路線計画で洗足池(千束池)付近を経由地として示す(のちに特許取得)。
- 田園都市株式会社の事実上の子会社である荏原電気鉄道が洗足(千束)池付近を経由する鉄道特許を取得。
- 田園都市株式会社、荏原郡の土地買収時に洗足池畔を含めようとするが、地元大地主に断られる。
- 田園都市株式会社、第二期線(大岡山~目黒)の途中駅として碑文谷駅(のちの洗足駅)を計画。
- 田園都市株式会社、洗足駅周辺を最初の分譲地とする(のちに調布田園都市と区別するため、洗足田園都市と呼称)。
- 目黒蒲田電鉄、目黒~丸子間開業。途中駅に洗足駅を開業。
- 田園都市株式会社、本社を洗足駅前に移転し、同年、自称として分譲地を洗足町と呼称。
- 池上電気鉄道、雪ヶ谷~桐ヶ谷間開業。途中駅に洗足池駅を開業。
- 目黒蒲田電鉄、大井町線の途中駅として池月駅(大岡山~東洗足間)を開業。翌年、洗足公園駅と改称。
- 東京府荏原郡馬込町、新たに大字として北千束と南千束を起立。
- 東京府荏原郡下の町村が東京市に合併。東京市大森区北千束町、同市同区南千束町、同市同区池上洗足町、同市目黒区洗足が行政町名として誕生。
- 目黒蒲田電鉄、池上電気鉄道を合併。
- 大井町線洗足公園駅を北千束駅に改称。
要するに当初は「千束」であり、「洗足」は江戸後期より流布された伝承が、各種文献で取り上げられているうちにこの「当て字」が正字になったようなものであることがわかる。しかし、地元はあくまで千束は「洗足」でなく「千束」であるとして、今日でも東京都大田区北千束及び南千束となっているが、肝心の池の方は「洗足池」が正当扱いとなっている。あえていうなら、都立公園時代は「洗足公園」だったものを区立公園時代になってからは「洗足池公園」と改称させたところに、千束は「千束」であるという主張が読み取れる。
一方、田園都市株式会社の第一号分譲地である田園都市洗足を基盤とする東京都目黒区洗足は、「洗足」であって「千束」ではない。目黒区と大田区と隣接する地域に「洗足」と「(南・北)千束」が存在するのは、意図的に紛らわしくしようというのが狙いなどではなく、歴史からしてそうなっているというわけである。これを無視して、紛らわしいからというだけで改称しようという議論の方が乱暴だとわかるだろう。ただ、部外者からすれば混乱しない方が無理というもので、例えば、先にも大雑把な流れで示した勝海舟の別荘の名である「せんぞくけん」が、「洗足軒」なのか「千束軒」なのか等々、どちらが正しいと言うよりもどちらか一方にしてくれと思う気持ちはわからないではない(正しくは「洗足軒」)。
また、もう一例として桜の花見の季節になると、東急目黒線洗足駅には恒例の注意書きが表れるようになるという。それは「当駅は洗足池駅ではありません」(笑)という、わかったようなわからないような説明板で、要は桜の名所でもある洗足池畔(洗足池公園ほか)は洗足駅からはやや離れた場所にあり、東急池上線の洗足池駅が実際の最寄り駅なのだが、よくご存じでない方(そして早とちりな方など)は洗足駅で降りてしまうのだというのだ。地元の方には唖然とするような話らしいが、毎年出ていると言うことなのでそういうものなのだろう。私も実際、今春に洗足田園都市調査のため、洗足駅近辺を散策していたら、乗用車の運転席から「洗足池にはどちらの道を行ったらいいですか?」と声をかけられたが、この方はカーナビを頼りに「洗足」をキィワードとして目黒区洗足に来てしまったらしい。私が運転手に対して、洗足池は目黒区洗足ではなく大田区南千束にあり、そこの環七通りまで出たら中原街道との交差点を丸子橋方面に方面に進みながら坂を下りきった辺りで右手に見えてくると伝えたものの、「千葉」ナンバーの方には難しかったようでしばらく悩んでいた。きっと、何で似たような「せんぞく」があるんだ?と八つ当たりしたかったのかもしれない。
そんな「洗足」と「千束」について、次回は田園都市株式会社が「洗足」を駅名や分譲地名とした理由を考えてみていくことにしよう。といったところで、今回はここまで。
「洗足池」♪♪♪♪♪
嬉しいなぁ~~~♪♪
私の小学校は品川区ですが、当時の子供が、「ちょっと遠くまで行って遊ぶ」と言えば、何といっても洗足池!「洗足池に行く」というのは、ワクワクドキドキなことでありました。ボートに乗ったり、シカとたわむれたり、もちろん花見も。
思い出いっぱいなので、我が小学校の同期会は、去年も洗足池でクラス会しています。
我が父は赤松小学校出身ですが、当時の校歌を時々歌うので、書きとめてきました。(不正確な部分はお許しください)
「♪♪ 洗足池は浅けれど 偉人の胸を深く汲み 磨かん御國の心の光 赤松尋常小学校♪♪♪♪♪」
品川区旗の台でも洗足池。大田区北千束でもやっぱり洗足池。洗足池の存在感は、我々にとっては、大きなものがあります。もちろん思い出も。
ところで、「洗足駅」なんですが。我が家では、北千束駅と洗足駅を区別するために、ずっと「とおいせんぞく」と言っていました。実は私、かなり大きくなるまで、この「とおいせんぞく」は、「遠い千束」だとばっかり思っていて、あら、洗足駅だったのね、と。「せんぞくいけえき」と「せんぞくえき」まぎわらしいですね。
知らない人は、耳で聞いたらだけだと間違えますよネ。 。゚( ゚^ω^゚)゚。
投稿情報: りっこ | 2010/04/25 09:04
人に我が家の場所を教える時に苦労しました。戦後ですが、四国から来た人が品川駅から電話をして来て品川区ですから品川で下車したと言って来たのには閉口しました。ムード的には洗足と言えば目黒区のイメージが私自身強く持っています。本日もテレビの放送で北千束のレストランを紹介していましたが、場所は大岡山南口でした。最初に北千束と聞いた時の印象は大井町線の北千束をイメージしてしまいます。洗足池公園はさすがに分かり難かったのか北千束と改称されました。南千束は長原の領域に属するような気がします。似たような駅名が三つもあるのは珍しいことです。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/04/25 17:39
前日のコメントの捕捉
池上洗足町も淡谷のり子その他の芸能人が住んでいた独特の雰囲気の住宅街でした。下山事件の下山総裁もここに住まわれていました。上池台ではピンときません。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/04/26 09:35
突然ですが。
例の友人からの連絡で、「洗足幼稚園」があった、伊藤邸の詳細が少しわかりました。
伊藤幸次郎氏という、東洋汽船→満州日報→日本鋼管に深く関係した企業家の土地であり、彼がつくった耕読寮は、洗足教会とも、深いえにしを持っていたようです。
(洗足教会ができるまで、耕読寮を貸与、ということもしていたとか)
その財団法人四百百荘は「しひゃくそう」と読み。なぜ四百百荘かというと、伊藤幸次郎氏の生家が「八百屋」さんであったことから、これを忘れることないよう、そして謙譲の意味を持ち、八百の半分で四百という意味で、「百百」という字は、伊藤氏がつくった造語である、ということでありました。
洗足教会五十年史にはそのあたりのことや、耕読寮の写真などが掲載されており、今度友人より貸してもらうことになっております。
投稿情報: りっこ | 2010/04/27 23:03
りっこ様
四百百荘の所有者と名前の由来について興味深く拝読致しました。以前よりこの豪壮な住宅は誰が持ち主であったか気になっていましたが80有余年たってようやく胸のつかえがおりました。英国の貴族の館のような建物の裏側を小学校の帰路に林の間からかいま見たことを思い出します。正面はたしか門があって入れなかったような気がします。百の字を重ねた字がワープロの外字でも見つからなかったのも当然です。昔の実業家は常に初心を忘れないと言う強い意志持っていたことが分かります。古地図でも手書きになっています。洗足教会に関する更なる情報を心待ちにしています。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/04/28 10:04
りっこ様
四百百荘の追加
あらためて香蘭女学校のホームページを閲覧しましたが伊藤幸次郎氏の茶室と築山が保存されているとの記事が掲載されていました。邸宅の方は多分昭和20年5月24日の空襲で焼失したのでしょう。東京の貴重な建物は震災とそれに追い打ちを掛けるように戦災で多くが失われたことは痛恨の極みです。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/04/29 09:07
木造院電車両マニアさま
同じくネットなのですが、「120年の香蘭の歩み」というのを見ることができます。こちらの方には、まとめまして、このようなことが書いてあります。
「生徒数増加により、1937(昭和12)年に購入した土地(これが、四百百荘のことだと思われます)に1941年3月、香蘭女学校は移転しました。当時著名な実業家であった伊藤幸次郎氏(1928年没)の邸宅跡で、1918年竣工の英国コテージ風の瀟洒な洋館(木造院様が、小学生時代に見られた豪邸は、これかと思われます)を教員室のある本館として生かした校舎で新しい学校生活は始まりましたが、すぐに太平洋戦争に突入。戦争の激化に伴い校内に帝都防衛部隊が置かれ、やがて教室は工場と化してしまいました。(中略)1945年(昭和20年)5月24日夜の空襲で校舎は全焼しました。」
長く引用してしまいましたが、要するに時系列で言うと、
1918年 建物竣工
1919年 伊藤邸は財団法人四百百荘としてスタート 耕読寮となる(と、洗足教会50年史に書かれているそうです。耕読寮というのは、今で言う、学生援護会みたいなものらしいですよ)
1928年 伊藤幸次郎氏死去
四百百荘売却される
1937年 香蘭女学校が、四百百荘を購入
1941年3月 香蘭女学校移転 授業スタート
1945年5月 第二次世界大戦の空襲で全焼
学校としてちゃんと使われていたのは、わずかな間みたいで、とても残念ですね。
投稿情報: りっこ | 2010/04/29 23:02
なお追加ですが、伊藤幸次郎氏の茶室と築山は、2005年に再構築した新しい茶室です。
香蘭女学校は、毎年11月23日にバザーを開くので、そのときに学校内に入ることができます。
茶室も見ることができるのかもしれません。実は私、一昨年このバザーに行ったのですが、茶室まで思い至らず、見逃してしまったような気がします。
投稿情報: りっこ | 2010/04/29 23:05
貴重なコメントをいただきありがとうございます。
四皕荘の由来、興味深く拝読いたしました。ただ、この「皕」(百百)という文字。Unicode対応OS(Windows系であれば、というか21世紀にリリースされたOSなら普通はOK)かつ該当フォントがあれば、この文字が表示されることを確認できるように、近年の一(いち)日本人が創造した文字ではなく、康煕字典にも掲載されている由緒ある文字です。偶然一致した可能性は否定できませんが…。(四皕荘が造語であるなら了解です。)
伊藤邸自体は、大正期初期からあったとはいえ、30年程度で消えてなくなったんですねぇ。
投稿情報: XWIN II | 2010/04/30 07:36
りっこ様
XWIN II様
貴重なコメント有り難う御座います。鏑木坂の途中から入った通学路としては寂しいような当時はちょっと怖いくらい寂しい場所でした。四百百荘の文字が康熙字典にもあることは知りませんでした。翻訳業に従事しているときにキャノンの操作マニュアルに付属したJISコードで外字を入力して単語登録して連日徹夜で殺人的な速度で入力を強いられた時代を思い出しました。思えばよくこの年迄寿命が保ったものだと思っています。勿論数年前から引退しております。私の持っている安物の漢和辞典には掲載されていませんので、ネットで厚かましいお願いですがもし特別の意味、例えば多数等あるいは古文に使用されている例文があればご教示お願いします。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/04/30 10:11
XWIN II様
康熙字典は大田区図書館にありました。
ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。お願いを取り下げます。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/02 14:27
国立公文書館の平12運輸02921100の035項に大井町 千束間工事着手うんぬんとありますが当時の地名が千束であったのでしょうか。次回おりおみて閲覧してみようと思います。当時は大岡山でなく洗足に接続する予定だった様に聞いていますがこのへんも調べてみます。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/13 20:20
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
>平12運輸 02921100の035項に大井町 千束間工事着手うんぬんとありますが当時の地名が千束であったのでしょうか。
──についてですが、既に私の方でも国立公文書館にて調査済みです。で、結論から言いますと、ここにある「千束」とは「洗足」駅のことで、当文書申請時においてはいわゆる大井町線は大岡山駅からではなく洗足駅から分岐していたからです。
ただ、なぜ「千束」なのかは不明です。誤記だとは思うのですが、すべての文書が公文書館にあるわけではないので、何とも言えないところではあります。
投稿情報: XWIN II | 2010/05/15 08:44
大井町 千束
コメント有り難う御座います。閲覧した時に池上電鉄との競願うんぬんと記されているようなペイジがあったような気がしますがこれも大岡山への変更に影響したのでしょうか。また千束の地名ですがこれがより公的な呼び名であったのではないかと想像します。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/15 10:42
文化地図普及会の平塚町大正15年判を東京都立図書館で閲覧しましたが、西小山の手前で分岐している予定線は若し実現しておれば荏原中延付近で池上電鉄と交差して荏原地区の交通網に大きな影響を与えたでしょう。洗足田園都市の造成は未完成のようですが貴殿の研究結果を心待ちにしています。何故前回都立図書館でこの地図が閲覧できなかったのか記憶が定かでありませんがなにか問題があったのかもしれません。以前の所有者による赤とあおの鉛筆の書き込みがありましたがたいした問題ではありませんでした。他の国会や品川図書館にはこの地図はありませんでした。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/15 19:29
>ここにある「千束」とは「洗足」駅のことで、当文書申請時においてはいわゆる大井町線は大岡山駅からではなく洗足駅から分岐していたからです。
ただ、なぜ「千束」なのかは不明です。誤記だとは思うのですが……
このシリーズの「終編」で、コメントさせていただきました
http://firestorage.jp/download/7844f940387f73bdc20ca763771dff111211f788
に、「荏原郡交通全図」を載せさせていただきました。
この地図は、大正13年刊行の「荏原名勝」に附されたものであり、それを見ますと、目黒蒲田電車は、既に蒲田から目黒へ通じており、そして「目黒蒲田予定線」が、洗足から分岐して、大井町へ延びる予定となっております。
この「荏原郡交通全図」では、「洗足駅」とはっきり明記されておりまので、XWIN II様のおっしゃるとおり、「千束」は誤記だったのではないかと私も思っております。
しかし本当に「洗足」と「千束」まぎわらしいですね。
投稿情報: りっこ | 2010/05/16 21:06
洗足/千束
一方は駅名で他方は馬込村の字です。後で変更できる様に役所への申請に幅を持たせるためにあえて一般名称を使用したのかもしれません。我々が役所に申請する時によく使う手です。文化地図普及会の地図をあらためて見てみましたが、南台を含めて耕地整理の95%は完成している様に見えます。有隣社住宅の部分は造成されていません。大きな差といえば五叉路から南への馬込村との境界線に一部現在と異なるところがあります。五叉路の所の郵便局が反対側にありますが、鈴木氏は田園都市購入者第一号として電車の開通記念式典に挨拶したと東京急行50年史に書かれています。お嬢さんが私と第二延山小学校で同学年でしたが残念乍ら大部以前に他界されましたので聞く由もありません。有隣社住宅も事情を知っていたと思われる友人全員が他界されていますのでその線から調査することは不可能です。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/17 11:00
最近、「NHK交響楽団40年史」という本を読みました。
そこには「40年に寄せて」という、N響指揮者、渡辺暁雄氏のこんな文が載っておりました。
「私は小学校に入る前から東京音楽学校を卒業した後まで、東急目蒲線の洗足駅と大井線の、当時の東千束駅との丁度中間ぐらいに住んでおりました。その頃の新響の荏原練習場(実家のはす向い)へは3分で、数軒先には近衛先生が居られたこともあり、近くに楽員の方々も随分住んで居られましたし、毎日のように未知で楽器を持った皆様とすれ違うのが嬉しく、当時のあの辺りの人々にとっては、荏原練習場が近くにあることが何となく誇りでもあり、自分たちは文化住宅地に住んでいるのだという気持ちが誰にでもあったと思います。(後略)」
何が言いたいかと申しますと。
渡辺氏は、ずっとこの地の居住しているのですから、「東洗足駅」を「東千束駅」に間違えてしまうはずはなく。こういうミスは、単なる誤植なんだろうかと。
「洗足駅」の方は間違えていないのに、東洗足は、この本が発刊された当時、既に廃駅となっていたために、こういう間違えが起こるのかな、というのが一つ。
もう一つは、近衛文麿首相の弟であり、N響創設者の一人でもある、指揮者・近衛秀麿子爵が、ここに住んでいたのか!ということです。
正確には住所は昭和3年発行「華族譜要」によると、荏原町中延1125 でした。
意外に身近なところに、有名人って住んでいるものですね。
投稿情報: りっこ | 2010/06/04 17:51
すみません。ちょっと訂正させてください。
上記の「未知」はもう、これは「道」の間違いです m(_ _)m
あと、N響指揮者と書いてしまいましたが、渡邉氏(正確にはこっちの漢字)は、東フィルの専属指揮者でした。
すみません。
しかし、文字変換していると、洗足と千束と専属と、本当に間違えてしまいます(笑)
なお、余談ですが、渡邉氏の奥様は、鳩山一郎氏の娘さん(五女)
この地区は、実は「有名人・文化人」が結構おられるんですねぇ。
投稿情報: りっこ | 2010/06/05 07:39
りっこ様、コメントありがとうございます。
誤植(字)については、私もよくしでかすことなのであまり言えませんが、書籍の誤植は「著者自身が正しい字を採用しながら、編集・写植の段階で改悪されることも多い」という事実も忘れてはならないでしょう。最近はいわゆる電子入稿によって、改悪のケースが減っているとは思いますが、編集者の能力が低いと「正字」なのに「誤字」と解釈されてしまい(特に固有名詞)、著者の意図しないところで改編されてしまうとどうにもならないかと思います。
投稿情報: XWIN II | 2010/06/06 08:39
「近衛秀麿 日本のオーケストラをつくった男」という評伝を読みました。
この本、結構評価の高い本です。私も、興味深くまた勉強にもなりました。
ただ、残念だったのは、163ページ
「秀麿は、またも転居した。 府下平塚町中延大原115番地」
どこから、こういう住所を引っ張ってくるんでしょうね。
平塚町大字中延字大原と言いたいんでしょうけど。
字大原北はあっても、字大原はありませんし。
「115番地」のような、3けた番号の地番はなく…………
こういう誤った記載が、駅にまつわる地番等でも平気で使われ、またその記載が次に書く人に引用されてしまうのだろうなと、残念に思った次第です。
投稿情報: りっこ | 2010/06/07 07:28
りっこ様、コメントありがとうございます。
>どこから、こういう住所を引っ張ってくるんでしょうね。
↑
う~む、どこでしょうか。
ご本人が引っ越しを繰り返されているということは、案外、正確に住所なんて覚えていないかもしれないし、大原には北しかないので大原で十分通用したとか。地番も都会出身者には4桁なんてありえない…と(笑)。
それはともかく、この手の誤りは巷間に流布されているような印象ですね。
投稿情報: XWIN II | 2010/06/10 06:45