東急目蒲線(現 東急多摩川線)の本門寺道(道塚)駅の場所はどこなのか!? 前編
東急目蒲線(現 東急多摩川線)の本門寺道(道塚)駅の場所はどこなのか!? 中編
もともとは、1回の予定で書き始めたものが、前後編の2回になりそうだとなって、ついに前中後編の3回になった。たぶん、3回で終わる予定で書き始めるが、そこはそれ、書く時間が限られているので、3回で終わらなくてもご容赦願いたい。
前回は、大正15年(1926年)当時の3,000分の1都市計画図に書かれた本門寺道駅の位置を確認したところで終わったが、道路の真ん中に駅を表す四角が書かれている、という意味合いについて考えてみよう。ただ、その前にこの時期における3,000分の1都市計画図に書かれた駅(停車場)について考察する。この時期に発行されているものをつぶさに確認すると、単に四角だけで構成されている駅もあれば、これに加えて駅のホームや駅本屋などが記載されたものもある。3,000分の1という縮尺は、駅の詳細構造まで記すことが可能な大きさなので、通常は記載されるべきものと考えるが、中には四角だけのものがある。初版においてはホーム等まで記載して書かれるが、二版(追加、補正)以降に追記されたものが四角だけしか書かれない、という一般則でもあるかとも思ったが、そういうものでもなく、なかなか一般則は見いだしにくい。残念ながら、これは地図作製者の「都合」で片付けるしかない。
では、道のど真ん中に駅を表す四角が書かれている点について、やはり路面電車の駅のように単にホームだけの構造で、道路を挟んで上り下りのホームが分かれた構造だったのだろうか。これについては、残念ながら補強する資料がない。しかし、この3,000分の1都市計画図の略歴を確認すると、
- 図名「矢口東部」
- 大正十一年十二月 測図 都市計画東京地方委員会
- 大正十二年三月 測図
- 大正十四年十月 測図 内務省復興局
- 大正十五年六月十一日 印刷
- 大正十五年六月十四日 発行
とあることから、最初の作図は都市計画東京地方委員会で行われたものを関東大震災を経て、内務省復興局に移管したものであることがわかる。そして、本門寺道駅は「大正十四年十月 測図 内務省復興局」のタイミングで記載されたと思われるので、単なる四角で駅が書かれた事情はこのあたりに理由を求めることが可能かもしれない。
とはいえ、たった1枚の地図でここまで論じきってしまうのはどうかと思うので、以上は可能性として指摘するにとどめる。確実に言えることは、本門寺道駅は臨時駅として申請・許可されたものだが、これを許可延長することで恒久化することとなり、駅設備も臨時駅から正式なものを求められ、遅くとも昭和元年(1926年)時点では、道路の西側に駅設備が集約された。それは、たとえ仮駅の時には道路の東側に駅設備の一部があったとしても、仮駅でなくなって以降のある時期からは道路の西側に駅があったことは動かしがたく、発行時点から参謀本部陸地測量部地図は本門寺道駅の場所を誤り続けているとなるのである。
そして、昭和11年(1936年)に道塚駅に改称し、廃止に至るまで同駅の場所は変わらなかった。同時代資料である「東京横浜電鉄沿革史」では、道塚駅の場所は「蒲田区小林町三二一」とあり、この場所(321番地)は道路の西側であることが特定できる。以上のことから、仮駅の頃ははっきりとはわからないが、昭和初期から本門寺道駅(道塚駅)の場所は参謀本部陸地測量部地図が誤りであり、正しくは道路の西側であると結論づける。そして、その理由は3,000分の1都市計画図の駅の位置、及び「本門寺道」と駅名記載が道路の東側にあったことから、これを流用したと判断したい。
といったところで、今回はここまで。
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