(その4までの続き)
東芝のDynabook(J-3100SS)の何が画期的だったのかは前回述べたが、事実上最初のノートPCと言っていいものだった(出た当時はその名の如くブックPCと言っていた)と振り返るに十分のもので、PCアーキテクチャがIBM PC/XT互換だということなどまったく気にもとめなかった。とはいえ、私のPC生活の中心にどっかと腰を下ろしていたものはNEC PC-9800シリーズであった。もちろん、仕事の上でもそうだったが、ちょうどこの頃は私もIBM PC/AT互換機を相手にする仕事も入ってきていたので、本格的にこの世界にのめり込んでいく。
振り返ってみると、最もJ-3100SSを使ったのは今はなきBorland社のTurbo Pascalで、フロッピィベースでありながらそのコンパイル・リンク速度は、これも当時としては信じられないスピード(というかプログラムの規模が違うので比較するものではないが、現在の開発環境よりも速かった)だった。J-3100SSはさらにRAMドライブ(今日に言うRAMディスクだがFlashメモリではない。レジューム前提)を搭載していたので、ここにテンポラリを指定すれば、さらに劇的なスピードとなり(それなりの大きさのプログラムサイズ以上)、デスクトップの80286搭載IBM PC/AT互換機を凌駕することもあった。要するに、専らプログラム学習機としての役割を担ったのだった。
ただ、IBM PC互換機と言うことで、使用できるソフトウェア本数はPC-9800シリーズを圧倒的に上回ると喧伝されたものの、そのほとんどは英語しか通らないので、標準搭載されていたATOK7は豚に真珠状態。後に販売台数が伸びたことで、J-3100SS用の日本語ソフトウェアが登場したが、まともに使えるものがPC-9800シリーズからの移植版が多くを占めていたことから、こういったものを使う人はJ-3100SSのメリットはないに等しかった。だが、何よりもJ-3100SSはそのハードウェアに魅了された人たちが購入したので、私も含めそんなことはどうでもよかったかもしれない。
初のノートPCであるJ-3100SSは、1989年当時としてはスペックはたいしたものではなかった。搭載プロセッサは省電力版の80C86互換であり、グラフィックスもCGA互換に640x400といういわゆるNEC日本語解像度を追加採用しただけ、そしてモノクロ階調表現の液晶ディスプレイ。バックライトが省電力指向のためにしょぼいものが採用され、画面をじっと見つめていると明滅が判別しやすいので目が疲れる。使っていて明らかに、PC-286Lよりもスペックが劣っているのはわかっていたが、それ以上に持ち運びできるということに尽きることが大きかった。
このJ-3100SS、反響が大きかったこともあって、立て続けに後継機種が当時としては出まくり、ハードディスクを内蔵した(今日普及する2.5インチHDDは、この機種のために開発された)ものや、バックライトが冷陰極管に変えられたものや、プロセッサを低消費電力版80C286互換を採用されたものなど、相次いで登場し、ユーザの期待に応える形となった東芝だが、反面、初期ユーザは次々と出される新機種に辟易し、一部は次々と買い換えていくユーザもあったが、多くは付き合いきれないとして見切りをつけるユーザもあった。私は初代DynabookであるJ-3100SSの後、80C286を搭載した三代目を購入したが、この後はDynabookと冠するPCは購入しなくなる。しかし、東芝のノートPCを見限ったのではなく、しばらくしてToshiba AmericaのTecraシリーズやPortegeシリーズに手を染めていくのだが、それはもう少し後のことなので、その時に書くつもりである。
東芝のDynabookに見切りを付けたのは、日本IBMから出てきたPS/55シリーズのノートPC 5535-Sが登場したからである。これは、後にDOS/Vと呼ばれることになる「IBM DOS J4.0/V」を搭載した非力なノートPCだった。なぜ、Dynabookではだめだったのか? それは画面解像度が640 x 480でなかったことが大きい。いや、私にとってはVGA(今日ではグラフィックスカードの意味を持たされているが、そもそもVGAとはグラフィックス規格、ハードウェアの名である)でなかったことが致命的だった。この頃、私はWindows 3.0のベータ版を利用せざるを得ない状況にあり、仕事ではIBM PC/AT互換機をVGA環境で使うことが多かった。慣れない環境であったので、自宅でも同じ環境を持った物がほしかったが、IBM PC/AT互換であってもVGAでないDynabookでは物理的に不可能であり、VGAを搭載したノートPCがほしかったのである。それを実現してくれるのが、IBM PS/55 5535-Sだったのだ(当時、日本IBMは日本語をきちんと表示させるため、という理由を建前にせっかくワールドワイドなハードウェアを持っているにもかかわらず、日本市場向けには高価で互換性の「やや」低いハードウェアを提供していた。それがたったの640 x 480という液晶ディスプレイを採用したことが、日本IBMの変化の嚆矢として振り返ることができる)。
こういった経緯だったこともあり、後にDOS/Vと呼ばれる初代機を手に入れた割には、専らWindows 3.0で利用していた。その後に起こるDOS/VブームやThinkpadにつながる本機を手に入れたことで、私の中では一気にPC/AT互換に流れていくことになるのである。
といったところで、今回はここまで。
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