「一枚の写真」シリーズも4回目。今回も池上電気鉄道旗ヶ岡駅関連の一環として、至近にあった洗足幼稚園の話題。まずは、園舎の写真からご覧いただこう。
生け垣のある民家っぽい建物だが、手前の小さな立て札には見にくいが「洗足幼稚園入口」と書かれているように、これが洗足幼稚園。現在の東京都品川区旗の台六丁目22番(ゼンリンの電子地図で示すとここ)で、香蘭女学校に隣接していた。残念ながら洗足幼稚園のその後は調査し切れていないが、現在地には既にない。写真は「還暦記念 洗足幼稚園(大正15年10月19日発行。著者 棟居喜九馬)」という本からの引用だが、これには洗足幼稚園の成立までの歴史などが書かれているが、なかなかに地域歴史研究の視点からも興味深い内容が多い。その中から、この場所に幼稚園を作った理由、そして命名理由を述べた部分を示そう。
斯くて其設立の場所を府下荏原郡平塚町字中延さいかち坂上に定む、此地は洗足田園都市に近く高台にして見晴らし佳く、特に其隣地財団法人四皕荘(筆者注:四と荘の間の字が表示されない場合は「百百」が一文字)所有の二千坪にも余る一面芝生の庭園を時々園児の遊園に使用し得る承認を得たるにより、之れ以上理想的の場所はなく、且つ此辺は近来頓に人家増加して幼き子供の世話をする適当な機関を要求せらるる事頗る切なるものありと聞き、遂に該場所を選みたる次第である、又其名称を「洗足」となしたるは、此辺一体に共通する地名を用いたるに過ぎざるも、元来其字が昔時日蓮上人が池にて足を洗ひたる故事に因みてゆかしく、又基督が弟子の足を洗ひ給ひたる謙遜の徳も偲ばれ、又一面には余が過去の生活の足塵を洗ひ去って、心機一転無邪気な初童に更生し、更に新天新地の舞台に復活する気持にも協ひ、旁此名を冠したる訳である、
往事は、洗足田園都市がその姿を現し、これに刺激を受けた周辺地主もこぞって耕地整理した土地を優良住宅地として展開していた頃、つまり「洗足」ブランドが光り輝いていたことから命名されたのが伺える。位置関係を示すために、以前も示した昭和初期の地図を掲げておく。洗足幼稚園の北方向に位置する(地図にはほとんど入らない)のが洗足田園都市となる。
さて、洗足幼稚園の創立時の簡単な歴史もふれておこう(「還暦記念 洗足幼稚園」より)。
- 大正15年3月26日趣意書を配布して園児募集。意外にも直ちに30数名の応募を得る。
- 財団法人四皕荘所有の耕読寮を借り受け、大正15年4月12日午前10時開始。
- 大正15年5月22日東京府の正式認可を受ける。
- その後、敷地を定め校舎を新築し、65名収容可能な設備を完成。
- 寄付金は1,000円の藤田政輔氏を筆頭に毛利元秀子爵(100円)、田園都市株式会社(200)円など、現金は17人(個人、法人)。
- 入園料は2円、月謝は4円。
といったところで、今回はここまで。
今回は、感激の余り絶句。。♪(*^▽^*)v
この洗足幼稚園の記事を、私なりに探していたのですが、見つからず、あきらめていたところでした。ありがとうございます!
香蘭の敷地が、元伊藤邸ということで、これは伊藤博文公と、何か関係があるのだろうかと勝手に推測したりしておりました。そして私は、この名前も、てっきり「四面荘」だとばかり。今日、正解がわかって、本当に嬉しく思います。
洗足幼稚園。今は、知る人もほとんどいないのではないでしょうか。香蘭女学校が、この地に移転してきたときに、どこかへ移ったのか、それとも閉園したのでしょうか……
ところで、「サイカチ樹」ですが、上記地図上の位置にはもう、その樹はないものの、三光教会の中に、ある、ということを最近知りました。見るチャンスはなかなかないですが、「存在している」というだけでも、随分と嬉しいものですね。
投稿情報: りっこ | 2009/12/25 09:16
調査能力に頭が下がります。貴重な写真有り難うございます。段々人数が減って残念ですが同窓会の格好の材料となります。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2009/12/25 11:37
りっこ様、木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
本件は、旗ヶ岡駅関連というよりも東洗足駅がらみ(さらにいえば洗足田園都市)で調査していた時に、偶然見つけた産物です。なお、香蘭女学校の敷地についての変遷は、伊藤邸からスタート(その前は鏑木氏畑地)していますが、このあたりについても確認してみたいと考えています。
投稿情報: XWIN II | 2009/12/28 07:07
こういう写真がウェブで見られると娘が言ってきて閲覧。懐かしい写真でした。この幼稚園、キリスト教主義の幼稚園の草分けで、わたしの祖父、棟居喜九馬が作りました。太平洋戦争の頃、児童文学者の上澤謙二氏に園舎も経営も譲りました。はじめは祖父が、そのあと阿佐ヶ谷東教会の高崎よしき先生に園長を長くやっていただきました。先生方は多くは玉成保育専門学校のアルウィン先生のお弟子さんたちで、みんな本当にいい先生方でした。わたしは幼稚園の隣に住んでいましたので、多分本当の就園年齢より早くから幼稚園に行っていたようです。昭和10年の頃です。お隣の四皕荘は伊藤さんのお庭で、わが家とは地続き。境界の茶の木の間を通ってよく遊びに行きました。広い芝生。南東の隅に小さな祈祷室。門から建物が見えない本当のマンションでした。香蘭が引っ越してきたのは昭和14年か15年ごろでしょうか。続いて今の聖公会の教会もできました。
投稿情報: たーちゃん | 2012/04/30 17:09
たーちゃん様
貴兄は多分洗足幼稚園に通っていた昭和4年生まれの私の弟と同じくらいのようです。棟居様という名前は珍しい名前でしたのでよく弟の会話に登っていたのを憶えています。私自身は大正15年生まれですが、虚弱体質のため幼稚園には行けませんでしたが、近所の第二延山小学校に入学する頃は何とか体力も回復しましたが、同級生には洗足幼稚園の卒業生が何人かいて、学力の差を感じたものです。余談ですが、幼稚園の分裂騒ぎがあったことを憶えています。妹も同幼稚園の卒業生で何回か幼稚園に行きました。私の同年輩の幼稚園の卒業生も現在3人だけとなりましたが、去年渋谷で会合を持ちました。思えば約80年も前のことですので忘れたことも多々ありますが幸いまだ認知症に至っていないのが唯一の救いです。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/04/30 22:55
>たーちゃん様
「還暦記念・洗足幼稚園」の本は、港区芝の三康図書館におさめられております。棟居喜九馬様のお写真もたくさん掲載されていますので、機会がおありでしたら、ぜひごらんになってくださいませ。
三康図書館はこちらを検索すると出てまいります。
http://search.jword.jp/cns.dll?type=lk&fm=109&agent=9&partner=BIGLOBE&name=%BB%B0%B9%AF%BF%DE%BD%F1%B4%DB&lang=euc&prop=500&bypass=3&dispconfig=&tblattr=1
なお、洗足幼稚園のお隣の、四皕荘にもゆかりあり、そして中原街道をへだてたお向かいの、「洗足教会」にて、長らく牧師でおありになりました、北久保先生が、今年3月、87歳にて、永眠なさいました。前日まで大変お元気で、どこもお変わりなく、安らかに天に召された、とのことで、お別れの会が3月に洗足教会でありました。
投稿情報: りっこ | 2012/05/01 06:35