前回及び前々回に引き続き、今回も「一枚の写真」。最近の地域歴史研究は池上電気鉄道にこだわり続けているが、今回はライバルの目黒蒲田電鉄(現、東京急行電鉄)。現在の多摩川線(多摩川~蒲田間)にかつてあった駅、本門寺道駅である。
この駅(写真は昭和7年(1932年)刊行の「矢口町誌」より)。その名のごとく、池上本門寺に因んではいるが、「道」とついているのがくせ者で、本門寺に通ずる古道に接しているから「本門寺道」駅。今の東急池上線蓮沼駅付近を南北に走る道路がそれで、蓮沼駅から南下することおよそ400メートル。本門寺門前までは、実に2km弱になる。駅の場所は、今の東京都大田区西蒲田八丁目12番西側あたりがそこにあたる(ゼンリンの電子地図で示すとここ)。
この駅。既に廃駅だが、わずか15年程の短い歴史でもそれなりに記すことは多い。まず、駅ができた理由がすごい。池上電気鉄道に対抗して作られたという点は、理由としては問題ないが、それをこの場所に作ってしまうのがすごい。「道」と付けているので詐欺ではないが、洗足池の最寄り駅として今でも勘違いされることの多い、洗足池駅、洗足駅、北千束駅の混同と同様の事態を招いたことだろう。
そして駅名変更。本門寺道という駅名の由来は池上電気鉄道対抗であったわけだが、これを合併したことで名実一致させるように「道塚」駅に改名した。本門寺「道」と関わりは若干あるが(この道に面した塚が由来)、古来よりの道塚という地名(かつては村名、のちに矢口村の大字名、蒲田区の町名)がありそれを採用。
そしてもう一つは線路変更。地図をご確認いただいていれば、本門寺道駅がかつてあったところは既に線路はない。今では蒲田駅から西にほぼ直線化している多摩川線だが、当時はここを通るような形で南側に弛んだような線形となっていた。これを太平洋戦争末期、一面は焼け野原となった際、帝国陸軍の力も借りて一気に新線を作ってしまった結果で、今では考えられない手法で行われたのであった。結果、線路がなくなってしまった本門寺道駅(道塚駅)は存在基盤を失い、廃駅となるしかなかった。
といったところで、今回はここまで。
雨にも負けず,風にも負けず、空襲から生き残った貴重な写真を有り難うございます。道塚駅の近所に生徒の恐怖の的であった某私大の付属校の校長(当校では主任と呼んでいました)が住んでいたのでよく覚えています.終戦直後奇跡的に焼け残った友人の小林町の家に行ったときに、焼け野の原の中を目蒲線の電車が走っていたことを覚えています。国家総動員法の余韻を残す昨今の官僚支配とはことなり、大正デモクラシーの余韻を残す当時では,強盗の異名をほしいままにした鉄道省のOBの後藤専務でも先願の池上電鉄に横車をおせず、学校の塀に沿ったカーブを余儀なくされたようです。私事で申し訳ありませんが,小生の兄は川崎車両(川重)の技師をしておりまして、蒲田電車区からの引き込み線から目蒲線の連絡線を経由して電車を納品したと言っておりました.その後、連絡線は菊名に移り更に現在は長津田に移っております。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2009/12/24 13:41
雨にも負けず、風にも負けず、戦災から生き残った貴重な写真有り難うございます。道塚駅の付近に生徒の恐怖の的となった厳格な某市立大学付属学校の校長(同校では主任と呼ばれていた)が住んでいたので良く覚えています。国家総動員法の名残を残す昨今の官僚支配とは異なり、大正デモクラシーの余韻が残っていた当時は、強盗との異名を持つ鉄道省のOBの後藤専務も,先願の池上電鉄に横車を押すことが出来ず、学校の塀に沿ったカーブを余儀なくされています。終戦直後に奇跡的に焼け残った小林町の家から焼け野の原の真ん中を走る目蒲線を見たことが思い出されます。私事で恐縮ですが、小生の兄は川崎車両(川重)の技師をしていて、蒲田電車区からの引き込み線の先の連絡線を経由して電車を納入していたことを話していました。その後連絡線は菊名から長津田に移転しています。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2009/12/24 16:57
強盗の異名を持った鉄道省OBの後藤専務も官僚専政時代の昨今とは異なる大正デモクラシーの余韻が残る当時では、池上電鉄の先願に横車を押すことが出来ず、遠回りのカーブを余儀なくされたようです。終戦直後偶然にも焼け残った小林町の友人宅から焼け野の原の真ん中を寂しくは知る目蒲線の電車を覚えています。私事で恐縮ですが、川崎車両(現在は川重)の技師であった小生の兄から、電車を蒲田電車区の引き込み線から目蒲線の連絡線を経由して納品したことを聞いております。連絡線は貨物輸送にも利用された菊名から現在は長津田に移転しています。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2009/12/24 17:27
先願の池上電鉄のために、強盗の異名を持った豪腕の鉄道省OBの五島慶太でも横車を押せず、遠回りのカーブを余儀なくされた経緯があります。官僚専政の昨今では考えられない大正デモクラシーの余韻を感じます。道塚駅の付近には小生の中学の厳格な校長が住んでいましたので懐かしく感じました。終戦直後奇跡的に焼け残った小林町の友人宅から焼け野の原の真ん中を寂しくは知る目蒲線の電車を良く覚えています。私事で恐縮ですが、川崎車両(現在の川重)の技師であった小生の兄から電車を省線電車との間の連絡線を経由して納車したことを聞いております。貨物にも利用された菊名も廃止され、現在は長津田のみです。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2009/12/24 18:20
誤って同じものを投稿しました。お許し下さい。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2009/12/24 19:11
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
重複コメント云々よりも、メッセージ承認システムがわかりくいことをお詫びいたします。
当時の空気を体験された貴重なお話しをありがとうございます。
先願制度については、池上電鉄と目蒲電鉄間では様々なところで「争い」を見ることができますが、さらに古い明治期創業の武蔵電鉄間とはないんですね。やはり、同じ五島氏が関わっていたから、ということなんでしょうが実際はどうだったのか…。
投稿情報: XWIN II | 2009/12/25 07:16
重複に関する寛大なコメント恐れ入りました。早速大田区図書館で矢口町誌を閲覧し、蓮沼駅と武蔵新田駅の写真を200%で見ましたが、蓮沼駅のホームの短さが印象に残ると同時にこの駅の名前が示す通り、軟弱地盤のためか駅の手前で電車が激しく振動しつり革が激しく網棚にぶつかったことが思い出されます。また手入れが悪く線路に水草が生い茂っていたことも覚えています。経営が苦しかったのでしょうね。多数の写真のどれもが池上デハ20号の10輛の1台であることが分かりますが、ほぼ10kmではこれで十分だったのでしょう。600Vの山手線の主力選手の面影があります.武蔵新田の電車は東急最初の半鋼鉄車の100型のようです。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2009/12/27 11:42
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
矢口町誌のように各駅の写真が載っているのは少ないので、矢口町誌の編纂者には感謝の言葉もありません。当たり前のものこそ被写体のターゲットとなりにくいですし、当時は貴重であったろう写真ですからね。
蓮沼駅についての興味深いお話しもありがとうございます。
投稿情報: XWIN II | 2009/12/28 07:21