年末、大晦日。今日は2本記事を作成する予定、であるが、最初の記事は「一枚の写真」第5弾をお贈りする。まずは写真をご覧いただこう。
多数の人物が並ぶ記念写真。主要人物にはA~Gまでアルファベットを付した。これこそ田園都市計画の主要登場人物勢揃いの写真なのである。「東京横浜電鉄沿革史」に掲載されるこの写真解説には、「田園都市建設につき大正四年三月土地有志が飛鳥山渋沢子爵邸を訪問せる時の記念撮影」(字は一部修正)とあるように、時は大正4年(1915年)3月、渋沢子爵が満64歳(数えで65歳)の誕生日を迎えた頃のものである。
主要登場人物は、
A:渋沢栄一 子爵
B:海老沢正忠 氏(池上村)
C:小杉信太郎 氏(碑衾村)
D:畑弥右衛門 氏
E:安藤武 氏(碑衾村)
F:岸田鈴太郎 氏(馬込村千束)
G:豊田正治 氏(玉川村)
であり、カッコ内に村名を記しておいたが、わかる人にはわかるであろう蒼々たる地主、有力者が集っていることが確認できる。注意深く見れば、これら村の地主・有力者は紋付き袴で、それ以外は洋装である点も面白い。
碑衾村(洗足地区、大岡山地区)、馬込村千束(洗足地区)、池上村(大岡山地区)、玉川村(奥沢地区、玉川等々力地区)の有力者を集めており、のちの田園都市株式会社の分譲する地区と合致するのだが、気になる点もある。それは、調布村(多摩川台地区、現在の田園調布の一部)の有力者が見当たらないことである。単に調査漏れの可能性もあるが(紋付き袴の方のうち3人が不明)、現時点ではそういうことで。
この集合記念写真を撮影した時は、田園都市建設を実現するということで具体的なプランはともかく、ある程度の方向性は示されたであろう。その後、この地域がどういう方向で発展していったのかを知る際、きっかけの一つは間違いなくこれにあったことをおさえつつ、今後の地域歴史研究を進めていきたい。と来年以降の抱負を述べて今回はここまで。年内にあと1記事をアップ予定、としておきます。
海老沢や岸田の姓の友人が小中学校で一緒でした。皆さんは今でも区会議員などされいます。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2009/12/31 14:20
1年間、ありがとうございました。
とても、興味深く、またワクワクするような内容で、更新されるのが楽しみでした。
「岸田」さんですが。環七と、中原街道の交差点に、今「オリンピック」というスーパーがあります。そこいらあたり一帯が、「岸田」家の地所でした。大きな松の木があり、そこに夕日がかかると、まるで「絵」ような風景だったことを子供心に覚えています。(上記の岸田さんとは違う方かもしれませんが、多分縁戚関係だったと思います)
来年もまた、よろしくお願い申し上げます。 m(_ _)m
投稿情報: りっこ | 2009/12/31 17:04
りっこ様
この岸田氏は赤松小学校の卒業生で(小生は第二延山小学校)中学では偶然にも小生より一年下でした。近所の長原駅の裏に使用されなくなった中原街道の馬車が放置されていたことを覚えています。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2009/12/31 17:51
木造院電車マニア様
ありがとうございます!
実は、私は、この環七と中原街道交差点から、ちょこっとだけ品川区寄りの実家で育ったものです。父(85歳)と、父の姉(88歳)、つまり私の伯母がおりまして、伯母が第二延山、父が赤松でした。父の方は、越境入学です。
木造院電車マニア様のおうちは、どのあたりなんだろうと、私、先日から思ってしまっているのです。私は清水台です。第二延山と、旗台小からの、いわば分校としてつくられた学校ですので、私の世代だったら、木造院電車マニア様は、どちらの学区域だったのかなぁと。昭和大学のお近くの方でしょうか?
投稿情報: りっこ | 2009/12/31 23:13
りっこ様
私の学区は第二延山で昭和8年に入学しました。この年は教科書もさいたさいた桜がさいたに変わりややリベラルな雰囲気が残っていた時代でしたが、その年に日本は国際連盟を脱退し、ルーズベルトが大統領となり、ナチス党が政権を取り,ゾルゲが日本に上陸した節目の年でした。住まいは環七の近くの品川区と大田区の境の近所で荏原警察と東調布警察の管轄の境目ですのでよく問題が起きました。学校に入って驚いたのはクラスメートの約25%が旧荏原区は言うに及ばす目黒区と旧大森区の隣接する学区からの徒歩通学可能な越境入学者であり,中には東は大井町、西は自由が丘、北は祐天寺、南は調布嶺町から定期で電車通学しているものもいました。当時洗足には、自由が丘の海軍村と同様に内務省村といわれる地域がありまして、文部省に圧力を掛けて優秀な教員を同校に送り込んだので、城南地区の進学校となったためです。子供の立身出世を願う親の気持ちは今も昔も変わりません。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/01 12:36
りっこ様
前記のコメントの補足として、父君が進学された赤松小学校も当時有名な進学校で、某市立大学の付属校で私と同年級で赤松の卒業生を知っていますが、皆さん優秀な人材で、その中で特に医学部に進学して北千束駅の近くに外科医院を開業し、母校の赤松小学校の校医をつとめられた方ががおられましたが残念ながら近年他界されたと聞いております。私が住んでいたところのヒントとして最近テレビで見かける黒柳徹子が住んでいた所の近くの荏原区側の所です。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/01/01 19:19
XWIN ll様
あけましておめでとうございます m(_ _)m
このブログの研究のすばらしさ。いつも感じ入っておりまして、私が小学校同期会の幹
事をしている関係から、友人数名にも紹介いたし、皆で感服いたしております。今年も、どうぞよろしくお願いいたします。
木造院電車両マニア様
あけましておめでとうございます m(_ _)m
私が何よりも驚くのは、その記憶力の確かさ、鮮明さです。我が父より若干お年がお若いかな?と思いつつも、10歳とは違いませんよね?父は、70代の後半より、認知症が出て、現在の記憶はほとんどなく、また過去の記憶も朧になってしまいました。赤松小学校の当時の校歌「洗足池は浅けれど~♪」なんていうのはよく覚えているのですが、当時、この地区がどんなありさまだったのか、80年以上在住しているのに、ほとんど思い出すことができず、まことに残念です。
どうかこれからも、この地区の「昭和時代」のお話、聞かせていただけたら幸いです。
XWIN ll様のブログにてやりとりさせていただき、すみません。が、こういう場を与えていただき、大変感謝しております。
投稿情報: りっこ | 2010/01/02 09:36
りっこ様、コメントありがとうございます。
Blogのコメント欄ですが、貴重なお話しをいただけておりますので、まったく問題はありません。遠慮なく活用してください。一応、コメント承認制をとっておりますので、もしダメなら掲載を見合わせていただいているはずです(苦笑)。
そんなわけで、こちらも楽しませていただいておりますので、よろしくお願いいたします。
投稿情報: XWIN II | 2010/01/04 07:33
畑弥右衛門さんについて調べていてたどり着きました。このお写真はどこで手に入るのでしょうか。東急の社史とかでしょうか。
投稿情報: 紗妃 | 2020/12/12 18:47
紗妃 様
記事本文中にお示ししたとおり、「東京横浜電鉄沿革史」に掲載されているものです。いわゆる社史ですね。ただし、戦前に出版されたものです。
投稿情報: XWIN II | 2020/12/13 09:08