前回の続きです。前編、中編、後編の三部作の予定でいたが、とてもそんな分量で終わりそうにないことが判明。今さらながらの無計画なタイトルの付け方に後悔しつつ、一応、今回を後編とした後はどうしようか…と模索しつつ始めよう。
第五期 新生池上電鉄一年目
- 大正15年(1926年)3月2日 蓮沼停車場竣功届
- 大正15年(1926年)4月16日 省貨物線との交叉ヶ所仮設工事施行の件
- 大正15年(1926年)6月1日 鉄道省貨物線横断跨線橋架設の件
- 大正15年(1926年)6月21日 大森、五反田間及池上、蒲田間工事竣功期限延期の件
- 大正15年(1926年)6月21日 池上、蒲田間及池上、雪ヶ谷間仮設物使用期限延期の件
- 大正15年(1926年)7月22日 池上、蒲田両停車場設計変更の件
- 大正15年(1926年)8月25日 停留場新設の件
- 大正15年(1926年)10月15日 大森、五反田間建設費予算総額変更申請書依願返付の件
- 大正15年(1926年)11月13日 土工用仮線平面交叉の件
- 大正15年(1926年)11月17日 大崎、白金間線路変更申請書依願返付の件
- 大正15年(1926年)11月25日 大森、五反田間及池上、蒲田間橋梁工事方法変更の件
- 大正15年(1926年)12月6日 峯下、神ヶ崎間鉄道敷設免許の件
高柳体制から川崎財閥を背景とした中島体制(事実上は後藤体制)に移った事実上の初年は、前体制の積み残し課題の後始末に追われることに終始した。この中で注目は、現JR横須賀線及び新幹線の前身である品鶴貨物線の敷設計画が登場したことだろう。「省貨物線との交叉ヶ所仮設工事施行の件」と「鉄道省貨物線横断跨線橋架設の件」がそれで、今でこそ、東急池上線が御嶽山駅付近で跨線橋をもって横須賀線等をまたいでいる風景が当たり前だが、当時はまったく掘り割りなど無く、あのあたりはほぼ平坦であった。品鶴線は昭和初期に開通するが、わずかの年月の間にこのあたりの風景は一変したのではないだろうかと思われる。
また、大正15年(1926年)8月25日に「停留場新設の件」とあるのは、慶大グラウンド前駅あるいは調布大塚駅のことと思われるが定かでない。タイミング的には、慶大グラウンド前駅(大正15年8月6日新設)のことだと思われるが、文書の中身の確認が必要である。
工事等の延期の件も相変わらず多いが、同時に新設線の件も見えるようになり、いよいよ第三期線の具体化が進むのもこの時期である。(なお、国立公文書館アーカイブでは、大正15年として扱うべきものが昭和1年表示となってしまっている点に、利用の際には注意すべきである。システムの都合上(西暦と突合する元号が1年に複数持てないということと推測)だろうと思われるが。)
第六期 蒲田~雪ヶ谷間複線化完了まで
- 昭和2年(1927年)2月25日 省有客車譲受使用の件
- 昭和2年(1927年)2月25日 工事方法変更の件
- 昭和2年(1927年)2月26日 雪ヶ谷、五反田間線路及工事方法変更の件
- 昭和2年(1927年)5月4日 工事方法変更の件
- 昭和2年(1927年)5月28日 大森、五反田間工事竣功期限延期の件
- 昭和2年(1927年)5月28日 池上、雪ヶ谷間及池上、蒲田間仮設物使用期限延期の件
- 昭和2年(1927年)5月28日 池上、蒲田間工事竣功期限延期の件
- 昭和2年(1927年)6月4日 駅名称変更の件
- 昭和2年(1927年)6月14日 橋梁工事方法変更の件
- 昭和2年(1927年)6月17日 停車場及停留場乗降場工事方法変更の件
- 昭和2年(1927年)6月17日 蓮沼、光明寺及御岳停車場を停留場に変更の件
- 昭和2年(1927年)6月17日 土工用軌道平面交叉の件
- 昭和2年(1927年)6月24日 慶大グラウンド前停留場を停車場に変更の件
- 昭和2年(1927年)6月29日 工事方法変更の件に関する通牒
- 昭和2年(1927年)6月29日 停車場及停留場設計並線路勾配変更の件
- 昭和2年(1927年)7月26日 工事方法変更の件
- 昭和2年(1927年)7月26日 省所属車輌譲受並設計変更の件
- 昭和2年(1927年)7月26日 池上、蒲田間及池上、雪ヶ谷間本工事に依る運輸営業開始の件
昭和2年(1927年)の項目はあまりに多いので分割した。まずは、蒲田~雪ヶ谷間の複線化完了までを一区切りとした。池上電気鉄道は軽便鉄道法で特許申請を行ったときは、単線運行を想定していたが、地方鉄道法に基づく形に変更されてからは、都市鉄道として複線設備を当局から求められていた。しかし、旅客需要が読めないうちに複線化というのはなかなか勇気のいることで、単純計算だが収用すべき土地は2倍になり、建設資材も概ね2倍はかかる。つまり、先行投資に莫大な費用を要するわけで、これが池上電気鉄道の足を引っ張っていたわけである。結局、単線開業そして仮施設状態で開業したものの、単線単行運転では伸びが期待できない分、営業成績も厳しいものとなってしまう。そこで、第二期線までの単線区間を複線化し、第三期線は最初から複線で計画し直されたわけである。このあたりの流れを昭和2年上半期には見ることができるだろう。
そして、私が注目するのは6月17日付「蓮沼、光明寺及御岳停車場を停留場に変更の件」と6月24日付「慶大グラウンド前停留場を停車場に変更の件」である。鉄道マニア系の文献には、光明寺駅はなかったことにされている(東急50年史の悪影響)ものもあるが、当時の文献資料を当たってみればわかるように、光明寺駅は存在していた。ただ、存在していたには違いないが、私も含めてほとんどの文献では光明寺駅が廃止・移転したものが慶大グラウンド前駅という認識であった。だが、これによれば慶大グラウンド前駅と光明寺駅が併存していたようにも読めるのである。慶大グラウンド前駅が大正15年(1926年)8月6日に開業したとすれば、移転廃止であったとする以上、光明寺駅はそれより前になくなっているはずである。しかし、翌年の6月に光明寺停車場を光明寺停留所に変更するというのであれば、少なくともこのあたりまでは存在していることになる。さらにこの後で示すが、8月11日付で「光明寺停留場廃止の件」が出てきている。過去にさかのぼって文書を提出したと見ることも可能だが、仮に文書日付前後でこれらのことが成されたのであれば、光明寺駅と慶大グラウンド前駅は一年近く併存していたことになる。
以前「慶大グラウンド前か、慶大グランド前か? 正しいと思われるものでも誤っている事例」という記事で、1は光明寺駅、2は初代慶大グラウンド前駅、3は二代目慶大グラウンド前駅、4は千鳥町駅として変遷を語ったが、実は1の光明寺駅と2の慶大グラウンド前駅が併存していたという可能性が出てきたことは大変興味深いだけでなく、可能性として大いにあり得ると思う。
(そもそも、2の場所に慶大グラウンド前駅があったという事実がほとんど知られていないことも大きい。)
と、何だか慶大グラウンド前駅の続編を書きたくなってきてしまうとヤバいので、今回はこの辺で。
と、そうだそうだ、肝心なことを。7月26日付「池上、蒲田間及池上、雪ヶ谷間本工事に依る運輸営業開始の件」の翌日から、蒲田~雪ヶ谷間は第三期線開業の1か月前より複線による運行を開始したのである。以下、次回。
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