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2009/11/29

コメント

またまた失礼いたします。
私、このシリーズ大好きです!!
これからもよろしくお願いいたします m(_ _)m

ところで「駅の移転」ですが、我が実家は、昭和4年築。今も同じたたずまいであります。(友人からは「昭和記念館」と呼ばれております(;^_^)

この地に、昭和20年まで在住した、88歳になる伯母に、ちょっとインタビューしてみました。
我が実家は、東洗足駅が一番近く、池上線では、長原駅が旗ヶ岡駅よりずっと近かったので、伯母が利用したのは、東洗足と、長原なのですが、長原の記憶で曰く。

「最初は、掘立小屋のような駅だった。それが、だんだんと整備されてきて、普通の駅に変わっていったのよ」とのことで。

だから、旗ヶ岡駅の位置も、だんだん変化していったのかもしれませんね。

りっこ様、コメントありがとうございます。
掘立小屋! まさにそういう表現がぴったりなのかもしれませんね。伊達に仮施設扱いをされなかったというのも頷けますが、それでも長原駅は開業時から複線開業だったわけで、それ以前(蒲田~雪ヶ谷)はいったい何だったんだろうという感じがします。
もっとも、一両運転でプラットホームは石積み上げ、駅本屋もたいしたものがなかったならば、路面電車の停留所みたいなものだったのかもしれませんが。

それにしても昭和4年築とは、都市化の進む早い段階から生き残っている貴重な建物ですね。大田区鵜の木付近にも昭和記念館?的なものがありますが、維持が大変だろうなぁとも思いつつ。ちなみに、旗ヶ岡駅が一段落ついたら、次は番外編として東洗足駅を取り上げる予定としています(大井町線の駅ですが統合され旗の台となったので例外扱い)。

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