当Blogでおよそ4か月前、「慶大グラウンド前か、慶大グランド前か? 正しいと思われるものでも誤っている事例」という記事において、
私自身、結論は現時点では出せていない。池上電気鉄道の発行していた切符が「慶大グランド前」と書かれていたなら、「慶大グランド前」が正しいとなりそうだが、決定的な資料は当時の駅名が記された駅の写真だろう。なので、古い文献を図書館でいくつかあたったところ、決定的な写真を見つけることはできなかったが、確認した昭和初期の資料はほとんど皆「慶大グラウンド前」となっていた。しかし、これをもって「慶大グラウンド前」だと言えるはずもなく、今後の宿題とすることにしよう。
と記したように、慶大グラウンド前駅が正しいのか、慶大グランド前駅が正しいのか、という宿題に対して、ようやく納得できる解を示すことができる。まずは、池上電気鉄道が発行した切符を見てみよう。
昭和7年(1932年)5月3日の日付が確認できるこの切符。五反田駅発行のもので「五反田 → 雪ヶ谷 慶大グラウンド前 間」と確認できる。もっとも、切符右側には「慶大グランド前」ともあり、どちらが正しいんだ?と思わせるが、単に縦に7文字しか書けない故のものだろう。続いては、様々な文献にも紹介される沿線案内図。私もいくつか入手できたので以下に示すと、
昭和2年8月から昭和2年末に発行された「池上電気鉄道沿線名勝案内」(部分)には、「慶大グラウンド前」と書かれている(昭和2年発行とした根拠は、案内図裏面に「池上電車は蒲田を起点とし大崎広小路まで東京府荏原郡を半環状を画いて走る現営業線と池上大森間、大崎広小路五反田白金品川間の予定線とを有して居ります。来春までには五反田駅に於て省線と連絡し更に引続いて市内乗入線として白金猿町品川線の開通を見る筈です。」[すべて漢字等は現代のものとした]と記載があるため。太字は筆者注)。続いて、
昭和4年(1929年)頃に発行された「池上電鉄沿線案内」(部分)。これにもしっかりと「慶大グラウンド前」とある(池上から点線が出ているのは、荏原中延~池上徳持間3.7kmの免許路線 [1928年(昭和3年)11月5日免許] )。続いて決定版と言うべき、
改訂された「池上電鉄沿線案内」(部分)。何度も同じことを確認するが、やはり「慶大グラウンド前」となっている。この三点以外にも池上電鉄が発行した沿線案内図があるかもしれないが、少なくとも確認できたこの三点は、図はもとより裏面の解説でもすべてが「慶大グラウンド前」と記されているのである。
そして、池上電鉄が目黒蒲田電鉄に合併された後の沿線案内図では、いちいち示さないが「慶大グラウンド」と「前」が抜けてみたり、あるいは「慶大グランド前」と「ン」が抜け落ちてしまう。そのとどめが「東京横浜電鉄沿革史」に記載された千鳥町駅の由来に「慶大グランド前を改称」とされ、現時点での東急電鉄社史の決定版となっている「東急50年史」にも、それが引き継がれているわけである。
言うまでもなく、「東急50年史」は東急電鉄の歴史を調べる上で欠かすことのできない書籍であり、またこれを原典(典拠)としている文献も少なくない。いや、これを外すことなど考えられないだろう。だが、これに記載されているものがすべて正しいとは限らない。駅名の由来などはその最たるものだが、池上電気鉄道関連の記載もまたしかりである。当Blogでも、慶大グラウンド前駅の話題や雪ヶ谷大塚駅の話題で取り上げているように、明らかに「東急50年史」の記載に誤りがあり、これを元にした山ほどの文献による誤った記載が蔓延しているのが現状なのである。
これを正すには、やはり東急電鉄自身による新たな社史の登場が求められる。それに期待しつつ、今回はここまで。
いつも興味深く拝見しております。ここ暫く古地図で散歩ブームがわたしたち世代で流行っておりますが、XWIN IIさんの切り口で交通新聞社の東京なつかし散歩という本を見てもらえないでしょうか。わたしは自信が持てないですがこの本かなりちがうことが書かれていろのです。
投稿情報: コロー | 2009/06/08 19:47
コロー様、コメントありがとうございます。
当Blogに一本記事を書きました。リクエストに多少なりともお応えできたでしょうか。違うことが書かれている、というよりも、大して調べてもいないお気軽本のような印象を受けました。
気が向いたら、という前提ですが、もう一回取り上げるかもしれません。今後ともよろしくお願い致します。
投稿情報: XWIN II | 2009/06/09 20:13
ありがとござまいした。
投稿情報: コロー | 2009/06/12 19:25
今さらなんですが。
>>決定的な資料は当時の駅名が記された駅の写真
これを偶然見つけました。
「けいだいグラウンドまへ」昭和3年という駅名標示板があるプラットホームです。
「写真が語る沿線」
-駅名が「慶大グラウンド前」だった「千鳥町」の情景
です。
そのころをリアルに語っておられる方もいます。
写真って、まさに「真実」ですね。
投稿情報: りっこ | 2013/09/30 20:29
上記コメントに紹介いただいたURLを明記しておきます。
http://touyoko-ensen.com/syasen/ohtaku/ht-txt/ohtaku10.html
さて、この写真で注目すべきは「けいだいグラウンドまへ」のほか、前後の駅名表記です。写真右側ははっきりと「上」の字が読めますので池上であるのは確実。もう一方は漢字3文字ではっきりしませんが、昭和3年撮影が確実であるとするなら可能性は3つ。
1つ目は「東調布」で昭和3年4月に改名した現久が原駅。2つ目は「光明寺」で歴史上抹殺(なかったことにされたり、慶大グラウンド前駅ができた直後廃止扱いされたり)されている不遇な駅。3つ目は2文字なのでほとんど可能性はないが「末広」で「東調布」改名前のもの。
よって、「東調布」か「光明寺」かどちらかと。夢があるのは「光明寺」なのですが。
投稿情報: XWIN II | 2013/10/01 06:37
たびたび同じことを繰り返して申し訳ありませんが、慶大グラウンド駅の撮影が昭和3年とありますが、オーバーを召しておられますので12月頃ではないかと思います。当時は今日より温度が低かったように記憶しております。光明寺駅はすでに廃止されていることは桐が谷までの鉄道省に対する開通届け出書で確認出来ます。また末広が東調布になったのは同年の3月とウイキペディアで述べられていますので三文字は東調布の可能性が高いと思います。ついでながら双信式閉塞装置の届け出書では慶大グラウンと駅に信号機が設けられ、光明寺までは約10チェーンとなっていますので200メートルほどですが、写真のコメントには電車1台がやっと停車出来る短いホームである旨記載があるので、短距離でも運行可能だったのでしょう。昭和8年の小生の第二延山小学校の運動会をこのグラウンドで実施しましたが、1両では200人しか運べず、恐らく洗足と武蔵新田へも輸送を分けたのだと思いますが残念乍ら記憶にありません。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/10/02 19:14
>慶大グラウンド駅の撮影が昭和3年とありますが、オーバーを召しておられますので12月頃ではないかと思います。
↑
逆に昭和3年1~2月という線はないでしょうか?
また、池上電鉄は鉄道省の届と連動していないものも少なくなく、公文書盲信は禁物と見ます。状況証拠から見ても、複線化(桐ヶ谷開通)直後に廃止になったとは思いますが。
光明寺駅ホームは、慶大グラウンド駅移設後そのまんま残されていたのかも気になるところですが、昭和8年の航空写真からは読み切れず…。近所のご高齢のよく覚えておられる方にお伺いするしかないのでしょうが。
投稿情報: XWIN II | 2013/10/06 08:14
XWIN様
お説の通り昭和3年1-2月でしょう。いくら戦前でも12ではオーバーは早過ぎますね。何れにしても試合が神宮球場に移転した後はこの駅の存在理由は失われたことは確かです。昭和7年頃の大森区の地図によると現在の千鳥町駅の所に慶大グラウンドと記載されています。文字がつぶれていたので見落としていましたが、拡大した結果判明しました。小生の運動会がこのグラウンドで昭和8年に実施されたことは確かですので、その時点では運動場が残っていたことは間違いありません。地図には運動場と野球部の記載がありますが、何時頃日吉に体育会が移転したかは知りませんが、昭和15/6年頃ボート部の艇庫が武蔵新田にあり、ボートを借りたことを憶えていますので、新田のグラウンドと多少関係があったのかもしれません。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/10/06 11:56