桐ヶ谷駅(現 東京都品川区大崎四丁目13番内に所在していた)は、東急池上線(五反田駅~蒲田駅)の大崎広小路駅~戸越銀座駅間にかつてあった駅だが、それほど大した駅でもないのに鉄道史において名前が登場するのは、当時の池上電気鉄道が部分開業を繰り返していた際、「1927年(昭和2年)8月28日、池上電気鉄道が雪ヶ谷駅~桐ヶ谷駅間を部分開業」という事実があったからである。仮に部分開業が「雪ヶ谷駅~大崎広小路駅間」であったなら、それこそ存在そのものが埋没してしまうような小さな駅だったに相違ない。しかし、池上線の部分開業の終端が桐ヶ谷駅だったことで、この駅の存在は廃止後も歴史の中に名を残すことになったと言えるだろう。
そんな桐ヶ谷駅だが、これまで当Blogで取り上げたことがある「慶大グラウンド前駅か? 慶大グランド前駅か?」や「いつから雪ヶ谷大塚駅に改名したのか?」というものと同様、これも東急池上線の駅についてである。なぜ、池上線関連を多く取り上げるのか。この理由をこれまでほとんどふれてこなかったので、簡単に書いておこう。一言で言えば、東急池上線の歴史とは「勝者(= 目黒蒲田電鉄 → 東京横浜電鉄 → 東京急行電鉄)によって書かれた歴史」であり、自社路線と比べて確度の低い情報が提供されているからにほかならない。
地域歴史研究において、各種文献を調査するのはもちろんだが、私も含めて多くの方々が参照する原典となるのは「社史」のような自身によって書かれたものだろう。だが、多くの場合、本当に自身の歴史であればそれこそ「体験」として書くこともできようが、例えば婿養子であるとか嫁のように、生まれた当初から歴史を「体験」していない人たちの歴史は、聞き取りになったり、想像でしか書きようがなかったり、あるいは都合の悪い事実は消し去られたり(これは自身であっても起こることだが)、等々、様々な要因によって不正確に伝わるものも少なくない。
東急池上線は東急電鉄の歴史において、現存する路線の中では東急池上線と東急世田谷線の2路線が、他社を合併したことによって得た路線である。特に東急池上線は、目黒蒲田電鉄(先にも書いたが東急電鉄の前身)とのライバル関係だった池上電気鉄道を買収合併した歴史があり、東急各線の中でも不遇な扱いを受けることが多い(と外部からは見える)。池上線の歴史記述の薄さは、池上電気鉄道を合併して10年経たずして刊行された社史「東京横浜電鉄沿革史」からもわかる。いかんせん、それから30年以上を経た「東急50年史」内の池上線に関する記述よりも内容が少ないのだから。
(好意的に解釈すれば、合併してまだ10年も経ていないものを歴史として記述しにくい、という理由もあるだろう。しかし、この時点で記述に正確性を期しておけば、のちの社史「東急50年史」にあれだけの不正確さを継承することもなかったはずだ。)
とまぁ、そんなわけで敗者である池上電気鉄道を出自とする東急池上線は、私にとって気になる存在であり、地域歴史研究の題材としてもなかなかに面白いのではないか、というわけである。
では、桐ヶ谷駅のプロフィールを簡潔に記しておこう。
桐ヶ谷(きりがや)
- 1927年(昭和2年)8月28日開業
- 1945年(昭和20年)7月25日休止
- 1953年(昭和28年)8月11日廃止
以上の部分については、おそらく争いはないと思われる。駅が休止となったのは1945年(昭和20年)5月25日、このあたり一帯が空襲を受けた際に罹災したのが原因で、戦後も休止状態が継続し、復活を果たすことなく事務レベルで約8年後に廃止となった。復活できなかったのは、大崎広小路駅~戸越銀座駅間1.1kmと駅間隔が短かったことに加え、最寄りの商店街が発展していなかったことが大きいだろう。他に東急電鉄において、戦時中に罹災して休止後廃止となった駅は路面電車である玉川線及び戦後独立した小田急、京王、京急、相鉄の各路線を除くと、東横線の並木橋駅、新太田町駅及び神奈川駅、目蒲線(現多摩川線)の道塚駅があるが、いずれも復活を果たせていない(新太田町は臨時駅として一時復活)。よって、池上線だからという理由からではない。
さて、それでは本論に入ろう。桐ヶ谷駅の何が問題なのか。それは、またしても「東急の駅 今昔・昭和の面影 80余年に存在した120駅を徹底紹介」(著者 宮田道一、発行 JTBパブリッシング)の記述についてである。本書111ページにある桐ヶ谷駅に関する記載を一部引用すると、
「島式ホームが、第二京浜国道の北側に接して掘割の中に設けられ、北側の踏切側下り線側に本屋があった。さらに南側には橋上駅舎があって国道の跨線橋ぎわであった。桐ヶ谷火葬場への最寄り駅ともなっていた。」
とある。これは本文中に問題記述があるというよりも、単純に内容についての疑問である。それは、駅ホームの両端に改札を設けるのか? というものである。本文中には改札についてまったくふれていないが、本屋(「ほんや」ではなく「ほんおく」と読む)があるということは当然ここに駅員を配置し、本屋側に乗降客を誘導、つまりは改札があることを意味する(駅員配置に余裕があれば別だが、そんなはずはない)。無論、もう一方の橋上駅舎も同様に改札があることを意味するので、北(踏切)側と南(橋上駅舎)側の両方にあるように書かれているのだ。だが、現在の池上線の駅もすべてそうなっているが、ホームの両端に改札がある駅は一つとしてない(旗の台駅は戦後に乗換え駅として新造されたので例外)。これは単に営業コストを減らすのに都合がいいだけでなく、乗降客の安全管理等にも有効だからである。もちろん、電車編成数の少ない路線であれば、改札が一つにまとまっていた方がいい(今でも3両編成だが、戦前はさらに短かった)。もちろん、両側に改札があってもそれはそれで例外的なものであるし、本屋を設けた場所が改札から離れていたとしても、それ相応の理由があるはずだ。それを追求することを本稿の目標としよう。
現地を見るとわかるように(上写真手前が北側で奥が南側)、北側踏切方面に改札があるのが自然だと感ずるが、こちらはあまりぱっとせず、おそらく最も利用があったであろう桐ヶ谷斎場への道程も回り道となる。では、南側橋上駅舎だけなのか、というと地形上から見て果たしてそうだろうか? という疑問も出てくる。
と疑問を呈したところで、次回に続くとしよう。
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