何回、いや何十回、いやいや数百回以上は利用しただろう。東京秋葉原の「古炉奈」が6月14日に閉店してしまうというニュースがASCII.jpの『「衝撃! アキバの老舗喫茶店「古炉奈」が6月に閉店」』に掲載されていた。
この記事からは閉店の理由は読めないが、今回の不況が影響しているのだろうか。思い起こせば…って思い出す内容が多すぎて朝の出勤前には書ききれない。何にしても閉店前に一度は行っておかねばなるまい。
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何回、いや何十回、いやいや数百回以上は利用しただろう。東京秋葉原の「古炉奈」が6月14日に閉店してしまうというニュースがASCII.jpの『「衝撃! アキバの老舗喫茶店「古炉奈」が6月に閉店」』に掲載されていた。
この記事からは閉店の理由は読めないが、今回の不況が影響しているのだろうか。思い起こせば…って思い出す内容が多すぎて朝の出勤前には書ききれない。何にしても閉店前に一度は行っておかねばなるまい。
先週から大阪周辺で高校生中心に蔓延している新型インフルエンザ。
やはり、検疫をすり抜けていることが自明となった。
検疫と言いつつ、結局は自己申告。
面倒に巻き込まれたくないという、「個人」の狡い考えが「全体」の大いなる面倒に拡大した。
わずかな人たちの面倒だという考え、あるいは無知で、そうでない人たちにまで迷惑を及ぼす。
しかし、厳しい対応はしないでほしいという声も高い。
結局は何人か死なないとダメなのだろう。
所詮他人事、の思考(指向)の中では、そういうことなのだ。
「ファイナルファンタジータクティクス」が、ついにというかようやくというか、PlayStation Storeにゲームアーカイブスとして登場した。語るまでもなく、本作は「タクティクスオウガ」の正統的後継作として作られ、およそ12年ほど前の私も楽しみにしていた作品であった。そして中盤にさしかかる前までには、本作は「タクティクスオウガ」を超えるものではないかとの期待も高まったが、あるイヴェントから先はタクティクスではなくパワー一辺倒の戦術となり、終盤には育成してきたキャラクターが色褪せるような強力なキャラクターが次々と参戦。しかも歴史は変えられないという、まぁ当たり前の結論ではあったのだが、大いなる期待を打ち砕かれたものであった。
しかし、過大すぎる期待感を除けば、けっして悪い作品ではなく、時を隔ててみれば良作だったと振り返ることのできるものではあった。そして10年後、PSP向けにリリースされた本作の改良版は、UMDの読み込み問題とは別次元とさえ思える(PS版だってCD-ROMだったのだから。ずっと回転させておけないのはわかるが、一方でメモリは多かったのだし)劣化移植。ムービーはきれいだったが、それだけだった。
というわけで、同じPSPでもプレイできるPS版がメモリースティック経由でプレイできるのはありがたい。思い起こせば、12年前も「タクティクスオウガ」のカートリッジROMと比べて読み込みが遅いとか文句を言っていたような気がするが、これが払拭された本作。今日からプレイしてみたいと思う(時間が許せば)。
(仕事中)
で、2時間ほどプレイした。16:9ではなく4:3なので、左右が黒いが大して気にはならない。スタートしてからのテンポの良さは、PSP版と変わらないような気もするが、やはり最初の面のガフガリオン様「暗の剣」。ここでPSP版の劣化移植を垣間見ることとなったわけだが、PS版は何のひっかかりもなく、あっさり「暗の剣」のエフェクトがッ!
そうなのだ。PSP版の何がダメかといえば、エフェクトが発生するたびにひッかかること。いったい何をどうすればこのような形でリリースしたのかわからン!と叫んでしまうほどだったが、PS版はそんなストレスはない。はっきりいって、PSP版ファイナルファンタジータクティクス(FFT)の存在意義はこれでなくなったと思う。
では、前回の続き。早速、広告を見てみよう。
「ワレーヌ」。新防空防破ガラス糊料で「空襲下 爆風によるガラス破片損害を防ぐ 塗ればそのまま安全ガラスとなる」という、何と便利なものだろうか。今に言う、ガラス飛散防止フィルムのようなものか、いや「ワレーヌ」というくらいだから割れもしないとなるのだろうか。今さら遅いが説明書進呈とあるので、是非見てみたいものである。続いては、
「造れ! 送れ! 頑張れ! 鼻病治して増産報国だ」。鼻炎でもだめなのか?と思ってしまうが、きっと鼻水をすすったりしている暇があれば手を動かせ!とか罵声を浴びてしまうご時世だったのかもしれない。しかし、どうにも緊張感に欠けてしまうような気がするのは、私だけではあるまい。緊張感に欠けると言えば──
これだろう(笑)。「造れ 送れ 撃て」とかけ声勇ましいが、書いてあることは「増産戦士の必笑慰安隊」「健全で明るい余興の相談所」ということで今も絶好調の吉本興業の広告である。どんな時代であっても、笑いは必要であっただろうが、当局の目を少しでもそらすための「造れ 送れ 撃て」ということなのだろう。笑いで増産能力をさらに増すというのは悲しいが、こうまでしないと生き残ることができなかったと思えば、これはこれで素晴らしいものだと思う。
以上を紹介したところで、今回はこの辺で。
前回は二年間の朝日年鑑を見ながら、戦前と戦後で大きく変わったことを見てきたが、編集前記よりも広告の方に顕著な違いが見えたのではないだろうか。なので、引き続き広告の違いを見ていこうと考えたが、大変残念なことに戦後の「朝日年鑑 昭和21年版」には企業広告がたったの4社しかなく、阪急百貨店の比較くらいしか適当なものが見つからなかったのである。戦後は戦前よりも物資が欠乏しており、激しいインフレに襲われていたこともあって、真っ当な企業活動どころではなかったのだろう。つまりは広告を打つどころではなかったと思われる。
一方、戦前の昭和20年版(編集・発行は1944年(昭和19年))でも軽く20社以上の企業広告が出されており(だが、本文よりも広告ページはかなり薄い紙を使用している)、戦時色の強いものも多いが、単に企業名等を掲載するだけのもの、薬の効用だけをうたうものなどもあり、制限はあっても戦後間もなくのような状況ではなかったとなるだろうか。
そんなわけで比較はできないが、戦前の戦時色の強い広告を見ながら、当時の状況を慮ってみよう。まずは、公共的要素の高い瓦斯(ガス)会社のものからである。
「ガスも平気だ!」いや「ガスも兵器だ!」という大阪瓦斯株式会社。もちろん、毒ガスなどを製造していたわけではなく、燃料としてのガスを指す。とはいえ「ガスも兵器だ!」と言われれば、やっぱり毒ガスをイメージしてしまう。企業イメージとしてはどうなんだろうか?と、戦中の広告ではあるが気になってしまう。続いては、伊藤萬株式会社の ──
「戦う食生活!」。食事も戦いだったのか、とミスター味っ子のようなものかといえばさにあらず。「食栄素」というもののようだが、「これだけのお徳─」として、
が列挙されている。どういう仕掛けで、このようなことを実現しているのだろうか。いや、実現しているのであれば、十分に現代にも通用しているものだろう。なお、広告右下の囲みには「醤油の増し方」として、「水一升と塩百瓦(盃筋切十杯)食栄素十匙と配給醤油一升とをよく撹拌すれば即座に二升の美味しい醤油が出来ます」ともある。御飯が増え、栄養が増し、醤油まで二倍にできる。食栄素おそるべし!だ!!
さて、続いては昇英堂の広告。大阪瓦斯のようなストレートさ、食栄素のような超科学(苦笑)は出てこないが、「赤心こめて女性も増産へ」と「勤労の喜びを胸一杯に いきいき輝く働く女性の尊い姿!」とあるように、女性も銃後の守りだけでなく、積極的に勤労して戦争参加(増産)を訴えている。化粧品と思われる女性向けの広告でさえこうなのだから、他の広告もそういう傾向となるのは当然かもしれない。
と、ここで残りは次回へ続きます。
我が国が大きく変わったのは、直前ではポツダム宣言受託後、その前は明治維新となるだろう。明治維新は、急激な変化であったがそれなりの期間を経て行われたが、太平洋戦争前後はそんなものではなかった。そんなわけで、この違いを朝日新聞社が当時発行した「朝日年鑑」を見ながら「変化」を感じ取ってみよう。私はこの転換期を知らないが、こうまで違うか!と驚かずにはいられない。
まず最初に、昭和20年版(1944年(昭和19年)12月25日発行)、昭和21年版(1946年(昭和21年)6月20日発行)いずれも巻頭広告を出していた「阪急百貨店」の広告を見てみよう。
まずは、昭和20年版。価格統制も進む中、商売どころでなく「国策に順応し銃後配給報国の使命貫徹に邁進致して居ります」とあるように、配給の拠点のような感じになっている。では、一年後の戦後の広告は、というと、
「昔のように、安くてよいものを、沢山に販売したい」(現代仮名づかい等に改めた。以降の引用も同様)と、戦争は終わったが物資の不足等、国民窮乏の中、やはり商売どころでないことがわかる。「これは一人や二人の力では到底実行できるものではなく、我々業者が打って一丸となって適性なる算段、妥当なる利潤の為に懸命に働かねばならない」というのは、自社だけでなく国民全体へ訴えるかのようである。戦前と戦後、どちらも苦しく厳しいが、戦後の方には未来を感じ取ることができる。
広告でさえこんなに違うのだから、本文はさらにそうかと言えば、実は違いは思ったほど見えてこない。これは編集前記にあたる部分を読めば、はっきりとわかるが、続いてこれを戦前、戦後で比較してみよう。まずは戦前のものから。
これでは読みにくいので、以下に引用として示す。
「昭和二十年 朝日年鑑」(昭和19年12月25日発行。朝日新聞社)P4~5より
時局の重大さは今や「文字以上」である。二十年版朝日年鑑は、この決戦ただ中にある日本を中心に、狂瀾に洗わるる世界一年の縮図として戦時版らしい外装内容のもとに世に出ることとなった。未来を卜する有力な手掛りは、先ず過去を知ることである。二十年版は、明日の世界を知る上にこの役目を課すと共に、必勝生活の伴侶たることを期した。
時局の要請から本年版は更に紙数を減じたが本文三百八十四頁、広告は全然別頁とした。減頁対策としては頁当り収載字数の増加を計り、項目を整理し、一般に利用価値の少ない統計類を省略、各界一年の動向を展望する大観的読物を多くし、その他記事も出来るだけ興趣をもって読み得るよう意を用いた。従来は事典的要素も多分にあったが、本年版は事典たることともに読物としても十分に親しまるべきものたることを念とした。
所謂「年鑑型」よりの飛躍は決して十分とは言い得ないが、こうした過渡的な行き方にこそかえって戦時版らしい匂の漂うことを、読者は好意的に見て戴きたい。
「大東亜戦争」は「日誌」を省いたがその代りに大本営公表を網羅、軍事外の事は「年表」および「略史」に詳しいからそれで「日誌」の用は足りるとおもう。「戦う世界」は地文的記述から蝉脱し、戦う世界の動きを捉えることを主眼とし、通読の便のため「各国首都人口一覧」「近代国家興亡表」を添えた。
戦局が決戦の重要段階に入ると共に、国内も銃後より一転して総てが勇躍戦列につらなった。勝利の日まで、われらの戦う生活は続く。「決戦生活便覧」はその点で相当役立つものと信ずる。
各項目とも出来得る限り最近の事象まで収録するに努め、大本営公表は十月三十一日現在、官庁職名録、日本人名鈔は十一月二十二日現在とし、その他は軽重に応じて六月末、七月末或はそれ以後現在としたものである。世局の変転に伴い、印刷製本事情の最大限まで、締切を延ばし再三再四に亘り補訂、組直しを行った。
一高一低、一瞬の間にも戦機は動き、世界の相貌は変る、本書が世に出る頃には更に瞠目すべき変化があることであろう。ただ不変のものは神州不滅の信念と不撓の戦意である。さらば共に戦列に伍して、総力を傾けて勝利への道を驀直に邁進しようではないか。
必勝生活の伴侶、何ともすごいが、他にも「大本営公表」だけが情報ソースになったり等、文の端々に時代を感じさせる。では、戦後のものを見てみよう。
これも、先と同じく引用して以下に示す。
「昭和二十一年 朝日年鑑」(昭和21年6月20日発行。朝日新聞社)P2~3より
冬を越えて春は来る。
新しき歴史は、今はじまるのでなく、既にはじまりつつある。春の前に冬が横はっていたように、敗残日本の現在は、太平洋戦争に、日華、満州事変に繋がるのである。戦争は悪夢であったが「空白」ではない。今の、そして明日の日本の在り方を理解するためには、辛いからといって、戦時中の頁を飛ばしてしまうことはできない。いまとなって、戦時中の空々しい決戦態勢や施策をとりあげることは、仕事としても決して愉快でないが、編輯者としてはそれを忌避するわけにはいかない。再び愚なる歴史を書かないためには、まざまざと「戦争」の跡を正視し、自己批判しなければならないのだ。
最初本年版は終戦前後の一年間の記録だけにとどめる予定であったが、次々と生起する画期的、歴史的な諸制度の改革、社会情勢の急変に伴い、可及的に最近の事象までを盛り上げることになった。しかし、この頃の五日、十日は平時の五年、十年に相当するほどの凄じさで激動する。ある一つの項目に就いて補訂を試みている間に、他の三つの項目が、もう古くなってしまう。編輯者は微力のかぎりを尽したが、締切期日の他に頁数の制約もあって、或る項目は比較的新しく、或る項目は古く、また記述にも繁簡があって各項目の締切日が跛行的になっていることを認めないわけにはいかない。たとえば現下日本の最高の指針である連合軍総司令部の指令のごとき、最近のものまで採録したかったが、頁数に余裕がないため十一月末で一先ず打切り、後からの分は「政治」欄に略記した。「政治」は総選挙の結果から内閣瓦解、新内閣成立までを特に入れた。改正憲法草案、A級戦犯者の国際裁判、パリ外相会談、教職員追放令等次々と重要なことが起るが、それらについてもあるものは概貌を示すにとどめ、あるものは次年版に譲るより仕方がなかった。主要官庁職名録のごときは、締切後も数度に亘り異動を訂正したが、本書の一般に出る頃には更に顔触れが変っていることであろう。「朝日便覧」「人名録」なども頁数の関係で割愛した。こうした編輯者のもつ苦悩は、同時に今の日本のもつ苦悩でもある。次年版は新たなる構想の下に、機構を整備し、根本的に内容を革新して、信頼され愛読される立派な年鑑をつくりたい。
生活は苦しい。だが登山者にとって峠の数の多いことや、路の険しいことは苦しみでないように、民主国家建設の大道がはっきりと分かっている以上、希望も持てるし苦しみ甲斐もある。日本及び世界一年の縮図である朝日年鑑の次年版は、果たしてどういう内容のものができるか、編輯者の立場からも、また一日本国民としての立場からも、つづく一年に民主日本の異数の成長が望まれるし、そうした輝かしい記録に充ちた立派な年鑑をつくりたいと思う。
戦後を強く感ずる。私が特にそう感ずるのは、言い訳の嵐、と言っていいだろうか。自己批判、とは言いつつも「自己」ではなく、翻弄される自分がおかれている境遇に対してのものであり、間接的にだが、国(国家)が悪いからこうなったのだと言わんばかり。実際、そのとおりだったわけだが、滅私奉公のようなものを蔑み、個人主義に大きくふれてしまうのもこういった洗礼を受ければ仕方のないことだが、こういう経験を持った人たちによって団塊の世代が生み出されて今がある、ということを理解しておくことは重要だろう。偏った個人主義は再生産され、モンスター親のような変種が表れているのかもしれない。傍若無人の60代、という形で現出しているようだが…。
まぁ、それはともかく戦前と戦後。朝日年鑑をして、わずか一年半後にこんな大転換がなされていたことを慮れば、今が激動の時代だなんて思えない。そんなことを感じてみたのであった。
XWIN II Web Page時代には、PC特にマイクロプロセッサ関連の記事を多く書いたものだが、最近はすっかりご無沙汰となっている。最新プロセッサであるCore i7に関しても、当Blogでは、
の3本くらいしかない。そんな状況下、久しぶりに書こうと思ったのは、先週発表されたCore i7最上位モデルの製造中止という発表があったからである。もっとも、桐ヶ谷駅の歴史を書き終えるまでにこれに手を付けると、きっと桐ヶ谷駅の歴史は放置されるという危惧があったことから、これを終えて、書こうという勢いのあるうちに本稿を書いてみようという流れである。では、能書きはこの辺にして早速キーボードを叩いていこう。
あくまで名前だけは維持したいとして、中身は変わってもNehalemというコードネームを形を変えて継承していたCore i7。昨年来のAtomブームとネットブックPC及びネットトップPCの躍進によって、ハイエンドへの必要性が薄まりつつあった中、昨秋のリーマンショック以降の世界同時不況の蔓延。アメリカンな資源大量消費でもわずかなスピードアップ(=最速)を、と盲信するNetBurstの亡霊についにとどめを刺してくれそうな感じである。
ソフトウェア、特にOSにおいても64-bit化などどこ吹く風。Microsoft社が急ぐWindows 7は、ハイエンド指向から一転、ネットトップPCでの動作までも保証しようという、ロゥエンドまでとは言わないが、広く普及しているPCをも包括しようという流れである。Core i7はもとより、Core 2どころかAtomでもそれなりに動作するというのなら、誰がCore i7プロセッサ搭載PCを採用しようと思うだろうか(ハイエンドにはハイエンドの需要があって、ここはそうそう動くものではないが普及の途につくとは言い難い)。
Core 2の成功は、NetBurstへの不満が弾けたものであり、その大波はAMDプロセッサをも呑み込んでいったが、Core i7が登場して以降、Core i7に流れていったかといえばそうなってはいない。言うまでもなく、Intel社の戦略(ロードマップ)では、Core i7は2009年前半までハイエンド、エクストリーム系でしか提供されないとされており、その点から見れば現状に大きな不満はないようにも思う。が、しかし、先週発表されたCore i7 Extreme及びCore i7の最上位モデルの製造中止というProduct Change Notificationによる発表は、そう単純な話ではないようにも伺える。
「市場の需要が他のプロセッサに移行したため」(Market demand for the Intel Core i7-xxx has shifted to other Intel processors)というのが、Product Change Notificationに記載された理由(Core i7-xxxとあるxxx部分は、実際には965 Extreme Editionあるいは940が入る)だが、まさにその通りなのだろう。ただ、ハイエンド、エクストリーム系の需要がないのか、Core i7の上位モデルに需要がないのかは明瞭ではない。私はその両方だと見ているが、Intel社にとって重要なことは需要云々というレベルではなく、Core i7というブランド名が立ち上げに失敗して傷がついたことと考える。
今年後半には、いよいよMobile向けプロセッサにもNehalem系が登場するとロードマップには示されており、デスクトップPCにおいてもNehalem系をメインストリームにまで普及させるようになっている。その際、いつまでもCore i7というブランド名のプロセッサに居座られていては「普及させたくても印象が悪すぎる」となり、さっさとハイエンドブランドとしてのCore i7に見切りを付け、新たなブランドネームを冠するのではないかと予想するのである。
一方で上位モデルのみが製造中止になったということは、Core 2 Quadとの関係はどうなるのだろうかという疑念もある。Core 2 Quadは、最高パフォーマンス(特にベンチマークテスト)はCore i7 920に及ばないものの、今年に入ってTDP 65W版が登場したことで、性能/電力バランスがさらに優れたものとなった。Mobile版に至ってはTDPが45Wまで落とされている。これに対抗できるだけのものが、Nehalem系で用意できるのか。可能性があるとするなら、プロセスルールの縮小とさらなるリーク電流を軽減した製造プロセスの採用となり、それは早くても今年末から来年となる。少なくとも、今年後半の段階では余程のことがない限り(例えば、Pentium 4の時にもあったが、TDPの算出方法を変えるとか)、Core 2 Quadを乗り越えるのは困難だろう。
とはいえ、来年になれば新プロセス採用とGPUを統合したDualコア版が出てくるので、ここまで来ればNehalem系のプロセッサも「いい感じ」にはなってくる。しかし、Core i7のコア数を半減することで、Core 2との優位性をどの程度演出するのだろうか。当然、ベンチマークテストではグラフィックスパフォーマンスも加え、比較対象は自社の冴えないGMCHとするだろうから、表現としては「爆速」と演出するに違いない(苦笑)。
色々なことが考えられるが、ハイエンド系のプロセッサがリリース間もなく製造中止となるのは、3年程前のPentium D 920のことを思い起こさずにはいられない。Core 2登場前にリリースされたが、わずか2か月ほどで製造中止と発表され、NetBurstの断末魔と象徴付けられるような出来事だった。今回のCore i7は状況が大きく異なるとはいえ、「市場の需要が他のプロセッサに移行したため」とするのは常套句でもある。実のところ、Core i7がどうなるかなどほとんど興味はないのだが、Mobile Pentium 4-MのようなMobileプロセッサを出してくれるな、という牽制球を投げるようなつもりで本稿を書いてみた。以上。
(追記)
コメントをいただいたので追記しておくと、これは私の希望的観測です(苦笑)。
私がこれまでの材料から考えるに、ある時点での計画においては駅ホーム北側道路への直接的なアプローチが存在したが、桐ヶ谷駅が開業するまでの間に当該アプローチはなくなり、開業時においては駅ホーム南側から階段及び通路を経て駅本屋に達し、そこから狭いながらも駅前広場を通って駅南側道路に直結させた。一方、駅北側道路へは駅本屋から私道を経由してアプローチした、と考える。つまり、計画図である「桐ヶ谷停車場之図」は計画でしかなく、実際にはこのとおりではなかったと結論づける。
という結論をかませてみたが、こう考えた理由もやはり「桐ヶ谷停車場之図」にある。この図を再度掲げ、その理由を述べてみよう。
この図のように駅ホームからのアプローチを行なうには、斜面を削り取って一定の高さまで私道側の高さを下げる方法を採るか、あるいは私道側の高さに合わせて階段等の高架構造物を設置する方法の二つがある。上図では、斜面を削り取る方法を採用しているが、これはそれほどの高低差がないからだと考えられる。斜面を削り取ってしまうことによる不具合は、さらに高い部分との高低差が大きくなり、より急坂となってしまうことである。そこで図にもあるように、道路を曲げることで少しでも斜面の勾配を少なくしようとしているが、言うまでもなく、この図程度のものでは効果的には働かない。削り取る前の斜面の勾配の方が少ないのは当然である。
とはいえ、利用客の不利は無視してコストのみを考えれば、高架構造物を作るよりもこの方法が安価なのは疑いない。しかし、これまで取り上げてきた地図をご覧になれば確かめられるように、「桐ヶ谷停車場之図」のような斜面を削り取り私道を曲げるという痕跡を見ることができない。当該部分の私道は直線状に書かれており、現在もそのようになっている。
前にも示した写真だが、左側の擁壁は削られておらずそのまま残っている。そして、それ以前の航空写真を見てもこのようにはなっていないのである。
これは1947年(昭和22年)に米軍によって撮影された航空写真の一部で、桐ヶ谷駅周辺を拡大したものだが、中央部に見える傾いたグレーの長方形が桐ヶ谷駅のホーム跡?で、その左側を走る太い道路が第二京浜国道である。これまで示した古地図類にはまったく出てこないが、1934年(昭和9年)に計画されたものであるので、当然といったところである。肝心の私道部分がどうなっているのかはっきり見えないのが残念だが、駅ホーム跡と北側道路までの距離が相当あることから、こちら側へのアプローチはなかったと思われる。わかりにくいので、これとほぼ同じ場所を最近の航空写真で示しておこう。
こちらはカラー写真だけあって、線路に平行する私道がよくわかる。第二京浜国道はさらに拡幅され、上を首都高速道路が走るようになった。また、桐ヶ谷駅南側の道路も拡幅されているのがわかる。写真には見えないが、このすぐ近くには中原街道もあり、駅はなくなったがこのあたりが交通の要衝であることがわかるというものである。
さて、横道に逸れそうなので、論点を整理しよう。
桐ヶ谷駅北側の「踏切側下り線側に本屋があった」とすれば、「桐ヶ谷停車場之図」にあるような工事が必要となる。よって、斜面を削り取る工事が施工され、それは短期間の間に元に戻された、つまりはもう一度盛土して直線状の私道に造り直す必要があるが、そのような手間を桐ヶ谷駅~大崎広小路駅間、あるいは大崎広小路駅~五反田駅間の建設工事まっただ中にかけるだろうか?
まっただ中だからこそ、そのついでにできるというのもあるが、だとしても改札口が同時に存在していた期間はわずかか、あるいは踏切側下り線側の機能が失われた後に南側の橋上駅舎ができたという流れとなるだろう。なぜなら、池上電気鉄道の各駅いずれもが駅ホーム二方向への改札口は存在しないからである。
つまり、「踏切側下り線側に本屋があった」可能性は極めて低く、あったとしても南側の橋上駅舎と同時に存在していた可能性はさらに低い、と結論づけられる。よって、「東急の駅 今昔・昭和の面影 80余年に存在した120駅を徹底紹介」(著者 宮田道一、発行 JTBパブリッシング)の111ページにある桐ヶ谷駅に関する記載の
「島式ホームが、第二京浜国道の北側に接して掘割の中に設けられ、北側の踏切側下り線側に本屋があった。さらに南側には橋上駅舎があって国道の跨線橋ぎわであった。桐ヶ谷火葬場への最寄り駅ともなっていた。」
とあるのは、内容に疑問点があるというよりも内容が誤っていると言える。ただ、私も探してみたのだが、桐ヶ谷駅の写真さえあれば、この問題により明快な答えが出るはずだが、残念ながら見つけることができなかった。唯一と言っていいのは、戦後に米軍が撮影した航空写真で既に廃墟同然となったもののみで、これも島式ホームだったことと、東側私道が直線状になっていることを確認できるのみである。
さて、ここまで桐ヶ谷駅について調べてきたが、解決できていない問題を列挙して本稿を終えるとしよう。
これら3つの問題は、本稿で一定の見解は示したが、決定的な証拠はない。よって解決できていない問題とした。このほかには、
の2点を挙げておく。これらの疑問も含めて、新たな事実等を確認できたら、本稿の続きとして「その5」を書こうと思う。
では、最後に「大崎町郷土教育資料(大崎町小学校長会。昭和7年9月30日発行)」という、桐ヶ谷駅があった東京府荏原郡大崎町(現在の東京都品川区の一部)縁の資料から、桐ヶ谷駅の乗降客数(一日平均)に関するデータを紹介する。
1927年(昭和2年) 乗客数141人/降客数127人
1928年(昭和3年) 乗客数883人/降客数842人
1929年(昭和4年) 乗客数1,137人/降客数1,086人
1930年(昭和5年) 乗客数954人/降客数909人
1927年(昭和2年)は、8月28日から年末まで。1930年(昭和5年)は1月分のみ。これを多いと見るか少ないと見るかは人それぞれだと思うが、五反田駅まで全通して以降は、ほぼ併走するライバル目黒蒲田電鉄の目蒲線(現在の東急目黒線及び東急多摩川線)には及ばなかったものの、他私鉄線と比べればけっして少ない数字ではない。また、開業当初は桐ヶ谷駅あるいは大崎広小路駅が終点だったため、あまり振るわなかったが、目黒蒲田電鉄はさらに少なかった。同資料に掲載されている不動前駅の乗降客数(一日平均)を見てみよう。
1923年(大正12年) 乗客数13人/降客数13人
1924年(大正13年) 乗客数52人/降客数52人
1925年(大正14年) 乗客数448人/降客数448人
1926年(大正15年) 乗客数1,840人/降客数1,840人
1927年(昭和2年) 乗客数2,416人/降客数2,416人
1928年(昭和3年) 乗客数2,784人/降客数2,784人
1929年(昭和4年) 乗客数2,866人/降客数2,866人
1930年(昭和5年) 乗客数2,652人/降客数2,652人
1923年(大正12年)は3月11日から年末まで(途中関東大震災による営業休止期間を除く)。1930年(昭和5年)は1月分のみ。統計上、乗降客数としてカウントしているからか、乗客数と降車客は一致している。同年代で比較すれば、不動前駅の方が2~3倍ほどの乗降客数を示しているが、開業時の数字はとんでもないものだろう。昔はガラガラ電車だったという話を文献では目にするが、一日平均で13人しか乗らない駅というのはすごすぎる。しかも、目黒蒲田電鉄の宣伝では目黒不動への最寄り駅としてアピールしているのである。にもかかわらず、これだけの実績しかなかったのだから、本駅の乗降客数の伸びは関東大震災後の周辺宅地化、工場化への結果と言えるだろう。
たったこれだけのことからもわかるように、池上電気鉄道は目黒蒲田電鉄よりは劣っていたかもしれないが、けっしてだめな会社ではなかった。営業成績も五反田駅まで全通してからは上向きになり、東京横浜電鉄沿革史や東急50年史に書かれているだけの会社ではなかったはずだ。
といったところで、桐ヶ谷駅の歴史を探るのはここでいったんおしまい。
その1及びその2では、桐ヶ谷駅の簡単なプロフィールと東西両方向に改札(乗降客口)が存在したのか、という点について探求しようとしてきたが、ここで池上電気鉄道が五反田駅~蒲田駅間(現 東急池上線)を全通させた時点(1928年(昭和3年)6月17日)における、各駅のホーム方式及び改札口について見ていこう。桐ヶ谷駅が南北(上り下り)両側に、改札口が存在することが疑問であることが確認できるはずだ。
以上、17駅のうちで改札口が両側に設けられているのは、桐ヶ谷駅を除いて一つもない。当時は、1両編成で運行されることがほとんどだったことを考えれば、二方向に改札口があることが不自然である。なお、島式ホームが多い理由は、いちいち線路を曲げる必要がない(=建設費が安価になる)というほかに、開設当初は単線だったことによる(蒲田駅~雪ヶ谷駅は単線で開業。のち、桐ヶ谷駅まで延長する間に複線化した)。一方、五反田駅と大崎広小路駅が島式ホームであるのは、駅が高架構造となったことで、二つのホームを設けるよりも一つのホームを設けた方が逆に建設費が安価になるからである。つまり、島式か対面式かは、建設費によって決まっていたと考えて問題ないだろう。
では、桐ヶ谷駅の場合はどうだったのだろうか。一般的には対面式ホームの方が建設費が安価であるにもかかわらず、開業前の図面や地図からわかるように島式ホームとなっている。島式ホームのメリットは五反田駅や大崎広小路駅がそうであるように、高架構造物を建設する等といったホーム建設の際に余分な費用がかかる場合、現れてくる(二つのホームを作るより線路を曲げる方が安価ということ)。そういうメリットがなければ、桐ヶ谷駅だって対面式ホームを採用したはずである。
このアプローチを採れば、桐ヶ谷駅ホーム北側、つまり地上と高低差がほとんどない側に改札口を設けるつもりであったなら、わざわざ高価な島式ホームを採用せずに、他の地上駅同様に対面式ホームを採用したはずである。だが、島式ホームを採用したということは、桐ヶ谷駅ホーム南側、高低差が数メートルに及ぶ方へのアプローチが求められたからと考えられる。そして実際に、地図から明らかなように、駅ホーム南側に階段を設け、登り詰に駅本屋を設置し、駅南側道路と接続させている。一方、駅北側道路にも接続できるように、線路横に私道を設けた。こう考えれば、島式ホームや私道を設置したこともすべて説明できるだろう。
ここでもう一度、開業前の桐ヶ谷駅の図面を見てみよう。前回は駅東側へのアプローチを確認したが、実はもう一つ、気になる部分がある。
図に赤○が大小二つあるが、大きい方は実際に階段や通路、駅本屋があったであろう場所で、ここで注目するのは小さい方である。この出っ張りのようなものは何だろうか。推測でしかないが、この部分は南側道路へのアプローチであり、階段等の構造物が記載されていない平面図という可能性が考えられる。となると、この図面では駅ホーム二方向のアプローチが記載されていることとなるが…。いずれにしても、この平面図にはいくつか疑義を持たざるを得ないものではある。列挙すると、
以上の3点で、要は私道と南側道路との接続関係が異なっている、ということである。ここで、地図資料をもう一つ示そう。雪ヶ谷駅の歴史的変遷でも大いに参考になった、3千分の1都市計画図である。残念ながら今回は当該地図を見つけることができなかったので、これをベースにした新区内町界町名整理案図で確認しよう。
原図が小さいので、桐ヶ谷駅部分を拡大したが、かなりぼけてしまった。しかし、おおよその駅の構造は掴めるだろう。念のため、拡大前の地図も以下に示す。
こちらの方が見やすいか(苦笑)。赤く太い線は、桐ヶ谷駅南側の道路であるが、ここは当時の東京市品川区と東京市荏原区の境となっていた(現在は両区が合併して東京都品川区となっている)。桐ヶ谷駅開設時においては、東京府荏原郡大崎町と東京府荏原郡荏原町の境であり、地域の主要道の一つであった。では、拡大図も含めて上地図を見よう。注目は、島式ホームの南側(図では左側)から南方私道側の四角形に通路のようなものが描かれていること、そして四角形からは北東側(図では右上側)に私道が伸びて一般道に接道していること、である。これは前回示した「番地界入 東京府荏原郡大崎町全図」や、いわゆる火災保険地図の桐ヶ谷駅周辺のものと同じ基本構造である、と言えるだろう。
ちなみにこの新区内町界町名整理案図の原図は、どんなに遅くとも1928年(昭和3年)6月17日よりも前に作成されていることがわかっている。理由は、この地図では池上電気鉄道の路線が大崎広小路駅までで止まっているからである。
ちょっと小さくて見にくいかもしれないが、地図右上にある大崎広小路駅の先の線路は、現在の山手通りにあたる部分で切れていることがわかる。本来なら、一気に五反田駅まで接続したかったのはもちろんだが、大崎広小路駅~五反田駅間の工事は難工事だったことが当時の大崎町民の目撃談からも指摘されているように、わずか300メートルほどの区間に半年以上の工事期間を必要とした。大崎広小路駅の開業は1927年(昭和2年)10月9日なので、この日以降、先に述べた1928年(昭和3年)6月17日よりも以前のものだとなるわけである。
わざわざこのようなことをふれたのには理由がある。それは、当初からの疑義である「二方向の改札口が本当にあったのか?」というものである。雪ヶ谷駅から桐ヶ谷駅までの部分開業は1927年(昭和2年)8月28日であり、その約1か月後の10月9日に桐ヶ谷駅~大崎広小路駅間の開業となった。そしてその翌年、五反田駅まで全通する以前の段階では、桐ヶ谷駅ホーム北側へのアプローチは各種地図において痕跡すら見られない。仮に、これらの地図が作成される前でかつ、桐ヶ谷駅が開業して以降のわずかな間に開業前の図面にあるような駅ホーム北側へのアプローチがあったとすれば、非常に短期間の間になくなってしまったとなるだろう。だが、本当にそんなことをしてまでなくす必要性があったのだろうか。あったとすれば、これも既に述べたように改札口が二方向であったなら、駅員配置等のコストの問題や運行における保安上の問題も指摘されるが、そんなことはやる前からわかっているような問題である。
私がこれまでの材料から考えるに、ある時点での計画においては駅ホーム北側道路への直接的なアプローチが存在したが、桐ヶ谷駅が開業するまでの間に当該アプローチはなくなり、開業時においては駅ホーム南側から階段及び通路を経て駅本屋に達し、そこから狭いながらも駅前広場を通って駅南側道路に直結させた。一方、駅北側道路へは駅本屋から私道を経由してアプローチした、と考える。つまり、計画図である「桐ヶ谷停留場之図」は計画でしかなく、実際にはこのとおりではなかったと結論づける。
長くなったので、次回に続けます。たぶん次回で完結編…に、したい(苦笑)。
現地を見るとわかるように、北側踏切方面に改札があるのが自然だと感ずるが、こちらはあまりぱっとせず、おそらく最も利用があったであろう桐ヶ谷斎場への道程も回り道となる。では、南側橋上駅舎だけなのか、というと地形上から見て果たしてそうだろうか? という疑問を呈したのが前回(その1)までだったので、今回はその続きとなる。
この疑問を解決するには、やはりその当時の地図にあたるのがいいだろう。地図の定番と言えば、国土地理院(戦前は陸地測量部)のものとなるが、1万分の1地形図では駅の形が四角形(長方形)で表記されることがほとんどで、どちらに改札があるのかとか本屋があるとか等、駅の構造まではわからないことが多い。今回は示さないが、桐ヶ谷駅についても同様で北側か南側かはわからなかった。そこで、既存の文献をあたってみたところ、これも以前に取り上げたことのある「回想の東京急行 I」(著者 萩原二郎・宮田道一・関田克孝。大正出版)に「桐ヶ谷駅」の平面図が掲載されていることが確認できた。この原本(マイクロフィルム)は東京都公文書館にあるとのことなので確認すると、以下のようなものであった。
「回想の東京急行 I」に掲載されているものと同じだが、よりきれいにとれているはずである。上図では、北が右側で南が左側となっている。赤丸で示したように、駅ホームからのアプローチは北側でも南側でもなく、駅ホーム北寄りの東側に側道を設け、東側から出られるようになっていることがわかる。この図面は、開業前に池上電気鉄道が当局に提出した図面であるので、まったく寸分違わず同じではないものの、開業時(1928年(昭和2年)8月28日)はほぼこのような駅構造となっていたと思われる。では、南側橋上駅舎はどこにあるのだろう。無論、この図面からはそのようなものは存在しているようには見えない。
では、再び地図に戻ってみよう。
この地図は、1930年(昭和5年)3月15日発行の「番地界入 東京府荏原郡大崎町全図」(縮尺6千分の1)の一部で桐ヶ谷駅周辺(左から「やがりき」とあるのが右から読んで「きりがや」となる)を切り出してみたが、明らかに開業前の図面とは異なっているように見える。地図上では、駅南側(地図上では右斜め下)に出っ張りが書かれていて、接道する箇所もやや太い道路になっているような感じで、これこそ南側の橋上駅舎からのアプローチといった印象だ。しかし、まだまだ6千分の1の地図でもはっきりしない。決定的なものはといえば、今日ある住宅地図のようなものであるが、戦前の時期にそれに類するものといえば、いわゆる火災保険地図だろう。早速あたってみることにした。
いわゆる火災保険地図は、散逸してしまっている地域が多いが、今回は運がよく当該地域のものを発見することができた。またまた方位がずれてしまっているが、この図は上が北側で下が南側となる。おわかりのように駅ホームから南側にアプローチがなされ、南側に駅舎らしきものが確認できる(図中の「桐ヶ谷駅」とある箇所)。基本的な構造は「番地界入 東京府荏原郡大崎町全図」に表記されている内容と同じだろう。ただ、これを橋上駅舎と呼べるかと言えば、そうは言えないように思う。どう見ても、駅舎は空中構造物ではなく、法面のさらに道路側に置かれているからである。
ここでまたまた疑問符が付く。道路という公共用地上に私物の駅舎をつくってもいいのか? というものだが、この回答は先に示した「桐ヶ谷停留場之図」に見えている。
この図では水色を付けておいたが、要はこの水色で囲んだ部分が池上電気鉄道の敷地なのである。東側(上図では下側)の道路は、実は道路は道路でも公道ではなく私道であり、駅を出てから北側踏切側道路及び南側道路へのアプローチ道路だったのである。これは現在においても変わっておらず、今でも私道だと示す看板が掲出されている。
上写真は南側跨線橋より当該私道方面を撮ったものだが、ご覧のように何かの道路標識のようなものを再利用した「私道」という看板が確認できる。現地を確認するとわかるが、この池上線脇の道路が一見して私道とは通常思えない。道路幅員にしても道路条件(行き止まりでもなく、地域主要道路をつないでいる)からもそうなのだが、桐ヶ谷駅からのアプローチ道路だったとわかれば納得だ。往年の「たんけんぼくのまち」のチョーさん曰く「調べて納得、うんそうか」でおもしろ地図に書き込みたくなる、というものであろう。
さて、この辺で一度整理してみよう。
まず、北側と南側に改札があったのか、という疑問に対しては、どちらも証拠となりそうなものを確認できた。北側説は、開業前の当局に提出した図面「桐ヶ谷停留場之図」で確認できたが、北側ではあるが踏切からはやや離れており、どちらかといえば東側という方が適切であろう。理由は、東側から出て私道を経由し、北側にも南側にも行くことが可能だからである。
もう一つの南側説は、二つの地図「番地界入 東京府荏原郡大崎町全図」と当該地域の火災保険地図から確認できた。地図は、例外はあるものの、通常はそこにあったものが記載されることから、南側に改札があったことは疑いようがない。ただし、橋上駅舎だったかどうかまでは何とも言えない、となるだろうか。
このあたりで、その3に続く。
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