以前、当Blogで「自由が丘」の地名の由来を数回にわたって書いたことがあったが、なかなかお読みいただく機会が多いようで、今回は再び地名の由来について書いていきたい。しかし、どの地名に対して書いていくかということは、なかなかに悩ましい問題である。というのは、最近Blogの更新が青息吐息状態になっていることからもお察しの通り、仕事が多忙の故である。
能書きはこの辺にして、今回取り上げるのは目黒区「自由が丘」に隣接する目黒区「緑が丘」である。「自由が丘」といえば、東京都目黒区にある「自由が丘」が何といっても知名度が高く、無論、元祖でもあるのだが、目黒区「緑が丘」の方はというと、こちらは元祖ではない。というのは、あまりに普遍的、とは言い過ぎだが、今ではどこかしこにも「緑が丘」(あるいは「緑ヶ丘」)という地名は広く分布しており、私自身、独力ですべてを調査するには困難を極めるからである。
間違いなく言えることは、目黒区「緑が丘」(当初は「緑ヶ丘」)という地名が誕生したのは、「自由が丘」(こちらも当初は「自由ヶ丘」)と同年で、この時期、「○○ヶ丘」という地名が流行っていたと思われることである。これは、目黒区には自由ヶ丘、緑ヶ丘のほか、もう一つ宮ヶ丘(現、目黒区南三丁目の一部)という町名が新たに誕生していたこと。隣接する渋谷区においても、渋谷区景丘町(かげおかちょう)、渋谷区桜丘町(さくらがおかちょう)、渋谷区緑岡町(みどりがおかちょう)と昭和3年の時点で誕生していた。それぞれ、簡単に誕生した経緯をふれると、目黒区宮ヶ丘はもとは高木町二丁目であったが、住民投票(ほとんどが新興住民)で宮ヶ丘となった。渋谷区景丘町は、この地の字名であった欠塚が縁起の悪そうな名前であることから、目黒川の谷をのぞむ景勝地の意味で、当て字として佳景丘(かけづか)が提案され、これが元となった(この地にある加計塚小学校も欠塚を嫌ったもの)。渋谷区桜丘町は、まったくの新造地名で、由来は桜の木が多かったことによる。渋谷区緑岡町は、隣接する麻布区(現 港区)青山を避け、類似の緑岡とした(元は大字青山南町七丁目だった)。このような「がおか」地名の一つが緑が丘というわけである。
緑が丘の由来については、目黒区公式Webページによれば、このようになっている。では、まずはじめにこの説明について、私的なつっこみのようなものを付記していこう。
昭和7年10月1日に目黒区が誕生したのを機会に、町名変更が行われ、幾多の町名が姿を消す一方で、新たな町名も登場した。「緑ヶ丘」もその新しい町名の一つである。今日では「緑が丘」と表すが、当時は「緑ヶ丘」。住居表示の施行で「ヶ」が「が」に改められた。
まず、「町名変更」というよりは「地名変更」とした方がふさわしい。理由は、東京市目黒区となる前は、荏原郡目黒町及び碑衾町であり、両町に属するものは、「町」ではなく「大字」、大字を構成する「字(小字)」である。あとに「幾多の町名が姿を消す」という文脈から明らかなように、目黒町及び碑衾町が対象ではなく、大字及び字(小字)なのだから「町名変更」ではない。ちなみに衾村のおおよその位置は目黒区における環七通りの西側あたりという理解で問題ない。このあたりは重箱の角つつき系であり、まぁどうでもいいことではある。
緑ヶ丘一帯は、明治22年の町村制の施行で、それまでの衾村字谷畑(やばた)が碑衾村大字衾字谷上台(やかみたい)、谷畑東(やばたひがし)、谷畑中(やばたなか)、谷東前(やひがしまえ)、谷畑下(やばたした)、谷石川端(やいしかわばた)、谷向下(やむこうした)と呼ばれるようになり、昭和2年の町制を経て、7年に目黒区緑ヶ丘となった。その後、40年1月1日に住居表示制度が施行され、緑が丘一丁目から三丁目と自由が丘一丁目の一部となったのである。
「衾村字谷畑」とあるのは、「衾村字谷畑根」と思われる。ただ、「~である」と断言できないところに私も弱さを抱えている(苦笑)。明治22年4月30日までの衾村の字名は、明治初期の地租改正当時の地籍調査等で明らかなのだが、これが「谷畑」と「谷畑根」と両方の表記があり、正確なところははっきりしない。昭和初期の目黒区にちなむ文献に「谷畑根」と多くあることや、後述のように衾村4大字のうち、3大字の末尾に「根」が付いていることから、私は「谷畑根」を推しておきたい(谷畑とは、江戸期の頃の字名と思われる)。
なお、衾村4大字とは、「谷畑根」のほか、「平根」、「中根」、「東根」。これが碑文谷村と合併し、碑衾村となり旧衾村が大字衾となったことから、これら4大字も大字でなくなり、数多の小字に分割されることとなった。この小字名を付ける際、旧4大字の頭文字が字名に採用されている。緑ヶ丘は、説明にあるように「谷畑根」に含まれるところであったため、すべて「谷」の文字が字名に付いているというわけである。
(例えば、「平根」に含まれる小字は、平南大岡山、平鉄飛など。「中根」に含まれる小字は、中寺前、中化坂など。「東根」に含まれる小字は、東柿木坂北、東三谷など。)
そもそも「緑が丘」という地名は、緑の木立の多い高台ということに由来している。この辺りは、自然林に覆われた丘陵地帯だったのだ。呑川と丑川という二つの河川に二方が囲まれている緑が丘は、この二つの河川に滑り込むようになだらかな傾斜地になっている。どのくらいの傾斜かというと、緑が丘の境界に面している立源寺から緑ヶ丘小学校(昭和12年の開校で今日でも「ヶ」を用いている)までの約230メートルの坂の高低差がおよそ12メートルある。この傾斜は南向きになっており、見晴らし、日当たりとも、住宅地として格好の環境となっているのである。
あまりに当たり前すぎる由来ではある。実際、昭和7年当時もこのような由来に基づくのではないかとは思うが、「○○ヶ丘(岡)」という地名が流行っていたことはもちろん、隣接する「自由ヶ丘」に強い影響を受けていたことは間違いない。この緑が丘地区は、自由が丘地区と同じく碑衾町の第七区と自治単位も同じだったからである。なお、緑ヶ丘小学校の開校時期については、昭和8年より八雲小学校の分校として学校としての歴史はスタートしており、当時から緑ヶ丘分教場を名乗っていた。そして、「見晴らし、日当たりとも、住宅地として格好の環境」と説明が付されてはいるが、実際に緑ヶ丘(現 目黒区緑が丘一~三丁目のほとんど)と命名された地域がすべてそうなっているわけではない。あくまで南斜面の高台は、緑ヶ丘の4分の1程度であり、それ以外の地は、泥田圃等の低地だったところで、けっして住宅地として格好の環境とはいえないのである。
この町を歩くと、道路が碁盤の目のように整然としているのに気付く。大正から昭和にかけて、つまり東横線や大井町線の開通と前後して、耕地整理が巧みに行われたのである。その結果、多くの新住民が移り住むようになり、自然林に囲まれた緑が丘は宅地として発展した。一時、海軍の軍人がたくさん集まったので、別名、「海軍村」と呼ばれたこともあったという。
衾東部耕地整理組合の耕地整理事業の賜物であるのは間違いないが、巧みに行われたかといえば何とも言いようがない。特徴は六叉路(下写真参照)にあるが、ここは地域の中心地であるだけでなく、東横線や大井町線はわずかに地域をかすってはいるが、これら鉄道の開通というよりも周辺の耕地整理の進展、中でも田園都市の発展が嚆矢であるのは疑いようのない事実である。
と、目黒区Webページ内の説明に若干の解説、いやつっこみを付してみたところで、以下次回。
こんにちは(^^)
緑が丘の住人です。もう去年からずっと待っているんですが、以下次回から進まれていないような(^^;)
首を長くして続きを待ってます(^^)/~~
投稿情報: 緑が丘住人 | 2009/04/26 11:41
緑が丘住人 様、コメント&ツッコミありがとうございます。
いや、実はまったく忘れていたわけではなく、考察すべき解決しなければならない疑義があって、それを解消できていないために放置…もとい(苦笑)、そのままとなっているのです。
その疑義とは…。やや長くなるので近日中に執筆予定の、その2ならぬ、その1.1あたりで明らかにしたいと思います。
投稿情報: XWIN II | 2009/04/26 14:24