嗚呼、また大騒ぎしているよ。と、いつもながらの国民性に辟易しつつ、裁判員制度について今さらながら騒がれているようだ(マスコミ騒ぎすぎという面は、これもいつもながら否定しないが…)。こんなものは、本来は制度導入時に議論すべきものであり、今回は珍しいことにそれなりの機会も設けられてきた。とはいえ、この手の議論に強い裁判所相手なので、何を言ってもかわされ続けてきたのが実態だろう。だいたい、裁判・法律のプロ相手にアマチュア(国会議員含む)が勝てるはずがないのだ。
しかし、まったくツッコミどころがなかったわけではない。裁判員制度を国民に広く知らしめるための広報ページの中に、次のような一文がある。引用してみよう。
これまでの裁判は,検察官や弁護士,裁判官という法律の専門家が中心となって行われてきました。丁寧で慎重な検討がされ,またその結果詳しい判決が書かれることによって高い評価を受けてきたと思っています。
しかし,その反面,専門的な正確さを重視する余り審理や判決が国民にとって理解しにくいものであったり,一部の事件とはいえ,審理に長期間を要する事件があったりして,そのため,刑事裁判は近寄りがたいという印象を与えてきた面もあったと考えられます。また,現在,多くの国では刑事裁判に直接国民が関わる制度が設けられており,国民の司法への理解を深める上で大きな役割を果たしています。
そこで,この度の司法制度改革の中で,国民の司法参加の制度の導入が検討され,裁判官と国民から選ばれた裁判員が,それぞれの知識経験を生かしつつ一緒に判断すること(これを「裁判員と裁判官の協働」と呼んでいます。)により,より国民の理解しやすい裁判を実現することができるとの考えのもとに裁判員制度が提案されたのです。
いきなり「刑事裁判は近寄りがたい印象を与えてきた」とあるが、こんなものは至極当然で、丸裸同然の一般国民はそもそも刑事事件そのものにかかわりたくないものである。それをいきなり裁く側に回らせようというのだから、拒否反応は当然である。で、当然の疑問は、なぜ刑事裁判だけなのだろうか?という点だが、これは理由は簡単で、裁判員制度導入の根拠となる法律が「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」となっているからで、刑事裁判だけに特化されたものだからにほかならない。
いくら欧米諸国が裁判員制度を導入しているからといって、なぜ刑事裁判だけに特化されていなければならないのだろうか。民事裁判や行政裁判などが対象外とされているのはなぜだろうか。どうもこのあたりに意図的なものを感ずるのは私だけではないだろう。法律に刑事裁判と明記してしまえば、法施行後に疑問の余地を差し挟むことなどできない、というのが見え見え、というわけである。このあたり、もっとよく知りたい方は「裁判員制度」&「なぜ刑事裁判」等とマルチワード検索をかけるなどして、様々な情報を見るといいだろう。明快に説明できたものを見つけることは無理だと思うが、この部分こそが暗部だからともいえる。
欧米との比較が好きな官僚諸君は、都合の良いデータだけを目立つような場所に提示しているようなので、彼らに都合の悪そうなデータを上げておこう。
- 捜査目的……日本は自白・供述証拠の獲得。欧米は客観的証拠の獲得。
- 勾留期間……日本は13日間。欧米は約3日間。
- 勾留場所……日本は警察代用監獄。欧米は捜査官と関係がない拘置所。
- 取調べの弁護士立会い……日本は不許可。欧米は立会い前提。
- 取調べのビデオ撮影・録音等……日本は不許可。欧米は実施前提。
- 未決保釈……日本はなし(保釈金で可となる場合あり)。欧米はあり。
つまり、我が国の警察・検察の捜査というのは、こういった前提をもとに実施されているという理解を持つことが重要で、刑事裁判にあがる事例というのは、欧米の捜査方法とは決定的に根幹から異なるものだということである。国民に理解されやすいというのであれば、まずは捜査方法を理解されやすいもの(人権重視)に変更しなければならない。これが我が国に相応しいものでないというのなら、刑事裁判の国民参加など、それ以上に我が国に相応しいものとはならないだろう。
しかもおそろしいことに、公判前整理手続きには一般国民から選出される裁判員は参加できない。建前上は、拘束時間を増やすことになるという屁理屈がぶら下げられているが、この手続きを抜きにして量刑の可否判断をするなど、喩えは悪いが、参加人数を教えてもらえずに忘年会の幹事を行わせるようなものである。忘年会という形はできるだろうが、うまくいくはずがない。判断する材料の軽重を問う手続きを経たものだけで結論を出すというのであれば、裁判員として参加する意味の多くは失われてしまう。まさに形だけの裁判員制度となるわけだ。
さて、一定の結論めいたものを出しておこう。今回の裁判員制度導入は、昨今の元官僚テロのようなものを避けるために裁判所が仕掛けた刑事裁判責任転嫁(丸投げまではいかないのでこうしておく)となる。そもそも、刑事裁判だけに特化される理由がない。まず、刑事裁判ありきなのだから当然だが、この公理ともいうべき形で示さざるを得ないのは、責任転嫁したいが所以である。先に示したように我が国の犯罪捜査方法は、我が国の長い歴史の中で培われたものであるが、諸外国から見れば人権無視とされるべきものもある。しかし、捜査方法を変えるには国民のコンセンサスが得られにくい。一方で、犯罪件数は横ばいではあるが、いわゆる逆恨み的な犯行と情報化社会の進展によって、刑事裁判の判決を受けた者からの復讐が怖い事実もある(特に冤罪)。そこで、刑事裁判の判断を国民に一部肩代わりさせることで、逆恨みの対象を検察・裁判官から国民一般に広げ、少しでも危険を避けよう(逆の見方をすれば国民にもリスクを負ってもらおう)。これこそが刑事裁判だけ裁判員制度導入の真の理由と見るが、皆さんはどう思われるだろうか。
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