前回の続きです。3日連続更新ってかなり久々な気もするが、ともかくスタート。
蒲蒲線計画では無論ないが、現在のJR蒲田駅と京急蒲田駅をつなぐ計画をあの池上電気鉄道が持っていたというのは驚きだが、池上電気鉄道と京浜電気鉄道は提携していたとまでは言わないものの、比較的良好な関係を保っていた。その証左として、池上電気鉄道当初の計画線である大森駅〜目黒駅では、大森駅で京浜電気鉄道の終端である大森停車場前駅との接続を考慮に入れていたためである。この辺りは、今でも新井道ガードとして東海道本線・京浜東北線の線路下を高さは低いものの、立体交叉化されていたのである。このガードの東側に京浜電気鉄道の大森停車場前駅、西側に池上電気鉄道の大森駅計画が至近に位置していた。
だが、池上電気鉄道の計画線は大森駅近辺の用地買収が家屋稠密化によって困難となっていた。結果、1918(大正7)年に目黒〜池上〜蒲田間に路線変更を当局に申し入れたものの認められず、池上〜蒲田間を支線とし、大森〜池上間を取り下げさせず、本線として残すよう指導した。これを受け容れた後、大森への接続を事実上諦めたことで、今度は支線の蒲田から京浜電気鉄道の蒲田駅への接続を狙ったのである。
だが、大森駅付近では京浜電気鉄道との距離が至近であったのだが、蒲田駅付近はそうではない。蒲蒲線の話題としてあげるまでもなく、当時も今も離れていることに変わりはない。しかも、官線(東海道線)は地上を走るばかりか、複々線化(蒲田駅付近は1914(大正3)年完成)していたので、これを立体交叉で対応しなければならなかった。加えて、こちらも未成線であったが、蒲田駅西側への接続は武蔵電気鉄道が先願権を持っており、こちらとも立体交叉が求められた。これからわかるように、京浜電気鉄道に接続させるには、かなり大規模な立体交叉工事が必要であった。当時は、市街鉄道においても鉄道同士の立体交叉は珍しく、鉄道計画のみの池上電気鉄道には、京浜電気鉄道への接続線は無理だとして却下されたのである。もし、仮にこれが実現していたなら、蒲蒲線問題は大正時代、遅くとも昭和初期には解消されていたかもしれない。
と、まぁ都合が良く行くはずもない。当時の池上電気鉄道は高柳体制の前の八木体制なので信用力はなく、既存線の建設すらままならなかったことから、高架工事を要するだけの体力もなければ技術力もないと判断されても仕方ない。高架工事のコストは、川崎貯蓄銀行をバックにした後藤体制の時期、五反田駅高架工事にあれだけのものを作ることができたことを踏まえれば、時機さえ外さなければできたかもしれない。だが、こういうのはタイミングが大事なので、重ねてではあるが仕方がないし、死んだ子の年を数えるようなものである。
その後、池上電気鉄道と武蔵電気鉄道から免許を譲られた目黒蒲田電鉄によって、蒲田駅は3線が接続するターミナル駅となった。しかし、京浜電気鉄道と蒲田駅との接続ははかられず、戦時中に京浜電気鉄道を合併した東京急行電鉄が目蒲線、池上線、穴守線が同一鉄道会社になっても実現はできなかった。
そして戦後。我が国では蓋うにして、外圧に弱いとされているが、一時的ではあるが、二つの蒲田間を接続したのも外圧によるものであった。それは、太平洋戦争敗北後のGHQ(進駐軍)による東京飛行場拡張計画である。これにより、東京都蒲田区羽田穴守町、羽田鈴木町、羽田江戸見町の全住民が48時間以内に強制退去させられた哀しい記憶を忘れてはならないが、ここに拠点飛行場を作り上げることとしたのである。と、その前にこのエリアの歴史を簡単に航空(空中)写真交えて追っておこう。
昭和10年前後の羽田(©国土地理院)
これは、昭和10年代前半の羽田である。写真右下に運動場があり、真ん中やや上にある三角形上の黒っぽい部分は鴨猟場の池、その上に広がる敷地が東京飛行場である。小さいレシプロ機の時代の飛行場であるので、この程度の広さでも十分であった。なお、左やや下にある人家密集エリアは羽田猟師町にあたる所で、江戸期より密集地域として知られていた。それ以外は空地も目立ち、のどかな地域と言えるだろう。
昭和22年頃の羽田(©国土地理院)
続いては、先ほど述べたGHQが住民強制退去を行い、大土木工事がまさに行われている最中のもの。穴守稲荷のあった所は更地となり、海老取川西側(写真左側)に移転させられた。それ以外に以前の形跡を残しているように見える所(鴨猟場の池)も散見できるが、滑走路となる中央上部から右下方向に斜めに走るものも見える。他には、倉庫や兵舎のような建物も確認できる。
昭和30年代後半の羽田(©国土地理院)
そして、年代は進んで東京オリンピック(前回)の頃。比較のために載せたが、東京飛行場の名残はなく、巨大飛行場となったことが確認できるが、まだジャンボジェット就航前。このエリアの変貌がいかに大きなものだったかが確認できるだろう。
というわけで、話を戻し、この飛行場建設のための大量の土砂等を運搬する目的として活用されたのが、東急穴守線であった。京浜電気鉄道は、1942(昭和17)年、戦時下の統制経済のための法律である陸上統制法を根拠に、東京横浜電鉄に吸収合併され、名を改めた東京急行電鉄となっていた。そして、穴守線と接続する旧京浜電気鉄道線だけでは、首都圏一帯からの物資輸送に適さないことから、蒲田駅からの引込線を東急穴守線と平行する形で新たに建設し、東京飛行場拡張工事に供したのである。
昭和22年頃の蒲田(©国土地理院)
がれきの山となった蒲田だが、1947(昭和22)年当時でもそれは大きく変わらない。決定的に異なるのは、蒲田駅付近から東側にある更地と同じく第一京浜国道を越えた先にある更地(現在の大田区産業プラザあたり)だろう。そして、この二つの更地を貫く鉄道である。写真左側更地の下側、写真右側更地の上側に線路が確認できるように、これが東海道線と穴守線とを接続する鉄道である。
蒲田一帯は空襲(米軍による都市爆撃)によってほぼ一面焼け野原だったので、鉄道敷設に大きな障害はなく、1か月もかからずに敷設され、空港拡張突貫工事に大活躍することになる。かくして、旅客ではなく土砂等の運搬に供した鉄道であったが、ここに初めて蒲田と蒲田を接続する(京浜蒲田駅は関係なかったが)ものが完成する。しかし、この鉄道は臨時扱いであったこと、東京急行電鉄から独立した京浜急行電鉄の返還要求等もあって、狭軌の鉄道線を撤去し、蒲田駅からの引込線も同じく撤去された。もし、これを撤去せず、京浜急行電鉄が蒲田駅までの接続を重視していたらどうだったろうか。答えは何とも言えないところであるが、間違いなく言えることは、これが現在までの歴史を踏まえると、この時期が蒲蒲線のラストチャンスだったということである。といったところで、今回はここまで。次回に続きます。
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