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2012/08/29

コメント

通常1丁目は中心地から始まりますが、田園調布の場合は駅が3丁目となっており、田園都市の本来の中心からは逆となっており、更に田園都市から離れているのに田園調布本町という町名がありあります。地元の人にとっては調布町役場の所在地に近い方が田園調布の中心であると言う思いが強いのでしょうか。

コメントありがとうございます。
丁目の番号の振り方については住居表示のルールで明快に定められています。中心地、ではなく絶対距離で皇居に近いところが一丁目となります(他にも多数のルールがあり、絶対にこうというのはありませんが)。また、田園調布本町並びに田園調布南は、本来の田園調布でないことから。そして主要幹線道路等(環八通り、JR線ほか)で区切られているため、田園調布と冠しない町名が採用される予定だったといいます。ですが、結局、田園調布を冠することとなりました。そして、「本町」としたのは、かつての東調布町役場(のちの大森区役所調布支所、大田区役所第二庁舎など)があったからで、「南」としたのは単に方位に因ります。よって、田園調布の中心という意識よりは、折衷により「田園調布」+「本町」になったと解すべきかと考えます。

XWIN II様
丁目の振り方に関するコメント有り難う御座います。確かに大阪では大阪城から西に向けて丁目が振られています。何れにしても田園調布の名前は(家が建つ)の漫才の台詞ではないが更にバス停の名前迄変えるような依然として絶大な魅力を有しているのでしょう。洗足の様に既に崩壊しているのと比べると戦後の大混乱にも関わらず土地の価値を維持している努力に対して敬服します、

木造院電マニア様

私なぞ、不動産、建設業界におりますと、あれは地元の方の地価維持に対する努力の結晶であろうと確信します。こんな事なら日本中を田園調布にすれば良いと思います。私のうちは狛江市田園調布4989丁目です。少しは土地の値段が上がるかしら?

デハ3300様
狛江市まで田園調布を拡散すれば、その弛まぬ努力に高句麗の貴族も地下でさぞ驚くでしょう。

デハ3300様
旧大森区地域のバス停の名前には、池上電鉄が大正期から交通網を拡充していた関係で、昔の小字がいくらか残っていますので何とか残したいものです。六間道路とか特に三間通りなどは、中原街道から青物横丁まで続く日本で最も長い商店街ですが、残念乍ら衰退の一途をたどっているようです。狛江市も調布市に近いので西田園調布とでもしたら、地下に眠る高句麗の貴族もさぞかしびっくりするでしょう。

木造院電マニアさま、
狛江市田園調布4989丁目のデハ3300です。雪が谷大塚の近くに日下山というバス停がありました。今でもあるのかしら。狛江市内は旧町名は消滅し、公民館や交番の名前で残っています。小足立(こあだち)覚東(がくとう)とか。。。比較的早く地域住民の反対もなく住居表示が実施されたようです。そこに行くと旧四谷区、神田区の皆さんは旧町名(それでも明治時代よりは併合されているのでしょうが)を守っていらっしゃいますね。大田区ですと桐里町、道塚、などがなくなり、学校の名前に残っていますね。桐里町は中央という実に不快な名前(お住まいの方、ごめんなさい)になりました。私の家の周りは遺跡が多いです。

デハ3300様
東急の大田区のバス網に限って、私の知っている範囲では、東中、貝塚、三本松が残っています。日下山のバス停も残っています。古い文句の神田鍛冶町の角の乾物屋ではありませんが、東側に古い地名が比較的多く残っていますので、鳶の頭の住まいもあり火消しの心意気と言うか、改名には果敢に抵抗した成果でしょう。昔須田町に事務所を構えた居たことがありますが、戦災から奇跡的に免れて大正や昭和モダンの空気が残っています。

木造院電マニア さま

まだ日下山はありましたか。貝塚なんて中学校の名前に残っていますね。懐かしいです。田園調布4989丁目に住んでいると昔の地名には疎くなりますね。木造院電マニアさまは田園調布何丁目ですか?

デハ3300様
昔のお笑い芸人の決まり文句ではありませんが、田園調布に家が建つ程残念乍ら裕福ではありませんが、郵便局の配達区域は田園調布局の雪谷です。以前は品川区平塚町に住んでおり、第二延山小学校を昭和14年に卒業しましたので、城南地区には比較的詳しいのですが、他の地区には疎いのも事実です。狛江も昔親戚が国分寺に居た関係で国領の京王線の踏み切りを渡って甲州街道に出た時に通過したくらいです。

木造院電マニアさま

ははは、私、田園調布に住んでいます。郵便局は調布局ですが、なぜか電話だけは03エリア。それと、この地域が神奈川県から編入されたせいか郵便番号が201-000Xと東京の100番台ではなく神奈川県の200番台ですね。郵便の集配業務上必要なのかどうかはわかりませんが。。東大和に住んでいた時もたしか最初185?だったのが207に変わっています。185では何か不都合があったのでしょうか?

デハ3300様
パソコンで検索してみたところ、電話は世田谷の二子玉川の近くの砧電話局の延長先の子局であった関係で03であるとのことです。郵便番号は、聞いた所によると配達ルート別になっているとのことですので、対岸の神奈川県の局経由に成っているかも知れませんが、100番台が既に満杯になるのを避けるために201としたのかもしれませんが、その辺の事情は分かりません。電話の局番でも、3の次の番号が7のものは、旧荏原郡に属した地域ですが、世田谷区の内、同郡であった玉川町は7が付きますが、他の地域は3の次に3で始まるものが多いようです。

木造院電マニアさま

鋭いご指摘ありがとうございます。電話は市内の95%が03地域で局番は3430、3480が多いようですが、調布市にも世田谷区に隣接する地域は03地域があるようです。妻の実家が喜多見ですが、電話は3416で始まります。桜上水の方に行くと3303のようです。こう見ると、電話番号も奥が深く市町村の成り立ちと密接に関連しているようですね。大田区久が原は3751や3754が多いようですし、目黒区緑が丘の祖父母の家は、3717や3718でした。

デハ3300様

情報有り難う御座います。
 3の次に7が付く局番は世田谷区の旧玉川村、目黒区、品川区と大田区の旧荏原郡の地域をカバーしています。私が住んでいた荏原区では、当初白金電話局の子局の大崎電話局の番号でしたが、戦後城南地域の爆発的な加入者の増加で4から7に変更され、更にインターネットの普及で上に3あるいは5が更に追加されました。大崎町も昔は重要なセンターであった証拠でしょう。ご実家が久が原とのことですが、75は池上局です。更に局内でも加入者の増加で下に1以上をくわえましたので、先に加入した者を優先するので、3751であれば、加入時期が戦前であり。かなり昔からお住まいであったと言うことになります。
 久が原は図書館がありますので、翻訳を手がけていた当時、よく通いました。帰りに神社に参拝して三角点を見に行ったことがあります。出世観音もお参りしましたがご利益はないようでした(笑い)。

木造院電マニアさま

あ、その久が原図書館のそばです。久が原小学校の反対方向へ坂を上がったあたりですね。戦前からは住んでおりません。久が原へ来たのは昭和34年、電話がついたのは昭和35年だったと思います。幼稚園に入る前につきました。久が原に来てすぐ申し込んだそうです。当時は随分待ったようですね。幼稚園の卒園名簿を見ると、としがバレますが、昭和38年3月で、ひとクラス40人程度の内、電話がある家庭は6件です。我が家は父の仕事上(某製鉄会社)夜中でも呼び出しが多く、早めにつけたようです。図書館から坂を上がり(久が原小学校の脇ですね)出世観音に行く途中に私が通った幼稚園があります。もうバレましたか??

デハ3300様
電話の加入権が売買された時代が戦後でもしばらく続きました。私も電電債を購入しましたが、紙切れになりました。その後、10PSからクロスバーの20PSになるのはかなり早かった様に記憶して居ます。ダイヤルの戻る速度が突然はやくなり、続けてダイヤルしないとお話中になってしまうので戸惑ったことを思い出しました。今は電子化され、雪谷電話局もほぼ無人化されています。お父上は夜中に呼び出しが掛るとすれば鋼管ですか。

木造院電マニアさま

金と命の交換会社です。工場と本社両方に便利なところなので。父は大正12年うまれ。今年7回忌ですね。
ダイナブックの会社にお父様がお勤めの方も多かったですね。

デハ3300様
メール有り難う御座います。馬鹿は長生きすると言われますが、私は大正15年生まれですが、まだ何とか生き残っています。貴殿の通われた幼稚園で思い出しましたが、出世観音のバス停で修道女の方々を良く見かけましたが、幼稚園はカトリック系のようですね。
ようやく厳冬も峠を越した感がありますが、お体を大切にがんばって下さい。
草々

木造院電マニア さま

図書館から出世観音まで歩いて行かれたろすれば、前を通られたか、一本裏の道でしょうか。久が原も大きく変わりました。小学校のクラス会をやっても住所がわかる人は10人くらいですね。池上線とのお付き合いも最近は少なくなりましたが、もう半世紀を超えます。小学校一年生の時千鳥町から蒲田まで大人10円子供5円でした。まだ蒲田は地平ホームで木造のバラックで、子供にとっては蒲田は怖いところでした。もう一度デハ3300に乗りたいですね。オールM編成で調子のいい時は快速でしたが、私が高校生の頃は、ちょっとかわいそうでした。朝晩のラッシュ時しか走りませんでした。それでも途中で止まって、後ろから3499に押してもらったり。現場の方は大変でしたでしょうけど、私は楽しかったです。実は近所に木造院電マニアさまと同い年の小田急の運転士さんだった方がお住まいで、終戦直後の帝都線(ある一定の年代以上の方はこう言いますね)の大混乱ぶりを楽しそうにお話になります。ヒューズがなくて、銅線で無理やりつないだとか、MGが不調で、強引に1500Vから抵抗で電圧を落としていたとか。。それではまた。

デハ3300様
色々面白いお話有り難う御座います。東急では戦争末期から既に特に回転部分の整流子の故障で、一部の電車では4個あるうちの2個のモーターを殺して運転していました。昇圧後は院電時代の50HPに替わって新しいモーターと交換され、昨今では交流に転換された周波数制御ですので、整流子の保守の必要が無くなりましたので、床に点検用の蓋のある電車を見かけなくなりましたね、帝都電鉄も以前は小田急系でしたが、1500ボルトを抵抗器で落としたとのことですが、現場は怖かったでしょうね。ダイヤ通りに運転されることが当たり前の今日の状況は当時から見れば天国ですね。
また面白い話が在りましたらご投稿下さい。
本日はここまで。

【以下のコメントは非公開要請のものではありますが、私(XWIN II)的には十分地域歴史的なものと考えております。このコメントの判断については当事者間にお任せしますが、相応しくないコメントについては私の方で有無を言わさず削除していますので、掲載されているということは当方承認済みと言うことでご理解願います。】
以上、XWIN II 記す。
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XWIN II様
デハ3300様のコメントは小生にとっては非常に役立ちますが、一般の投稿者とはかけ離れていささか専門的であり、地域歴史研究の主題から逸脱する恐れがありますので、ハンドルネームをデハ3300で鉄道フォーラムに加入されることお薦めしてください。ジャンル別の部屋もありますので、他の情報も得ることができます。このコメントの公開は避けて、デハ3300様に直接当方の意向をお伝え下さい。アドレスはhttp:/www.railforum.jpです。

XWIN II 様
お申し越しのご趣旨了解致しました。掲載の可否は貴殿の判断に御任せしますので今後とも宜敷く御願いします。

木造院電車両マニア様
デハ3300様

私もXWIN Ⅱ様と同意見です。東急線に関しては、多少は「鉄子」っぽい私ですが、専門的なことは全然わかりません。でも、お二人のやりとり、楽しく拝見させていただいております。私の父は大正14年生まれなので、デハ3300様と私は、ほぼ同世代では?と思いながらコメント、読ませていただいております。池上線の、私は五反田-洗足池間をよく使ったもので、それから先は、同じ池上線でも、なじみが薄く、それだけに興味深いお話が多くて楽しく読ませていただいております。
どうぞ、これからもこのブログへのお二人のコメント、よろしくお願い申し上げます。
m(_ _)m

りっこ様
デハ3300様
 あまりにも専門的過ぎてコメントに参加されている方々が辟易されているのではないかと危惧しておりましたが、親切なお言葉を頂き感謝しております。
 年代は異なっても、共に戦後の困難な時代を過ごした我々にとって、昔話も楽しみの一つですので我慢してお読み下さい。特に戦後印象に残っているのは鉄道車輛のみならず自動車も尾灯を両側に2個つけることが義務付けられましたが、占領軍の命令だったとのことです。昔の写真を見ると電車の尾灯は確か左側に一個だけだったとおもいます。これも歴史の一こまですね。
 本日かここまで。

この記事に対するコメントについてですが、特段当方には第三者からの批判等は来ておりませんし、またいかなる物言いに対してクレームのないものなど存在しません(有象無象どちらでも)。批判を恐れるのであれば、世に存在することなどできませんので(存在しなくなっても批判されることもありますが)、要は価値観と受忍限度の問題かと考えます。
また、記事との関連性についてですが、私自身の記事をご覧いただければお気づきのように、あちこちに逸れまくって首尾一貫性すら見受けられません。その記事に対するコメントなのですから、話題からずれたところでどうということはありません。SPAMメールやコメントのようなものであれば、あっさり切り捨てますが、そうでないものに対しては力強いご意見として丁重に拝察しております。
所詮ここは私個人の運営するblogに過ぎませんし、インターネットに公開しているからといって、どうしても不快というのならご覧いただかなければいいのかな、という立場です。当記事にコメントを頂戴する皆様は、おそらく私よりも人生における大先輩なのですから、社会において様々な逆風を受けてきたはずです。
偉そうな物言いとなってしまい恐縮ですが、少なくとも当記事におけるコメントは誰が何といおうと問題ないという立場です。異論をお持ちの方もいらっしゃるでしょうが、寛容な心で見守っていただければ、と思います。

XWIN II様
コメントのご趣旨了承致しました。私自身たとえ自分の趣味だとは言え主題から逸脱して余にも専門化されすぎてはいなかったかと投稿してから自己批判していましたが、今後とも思いのままに考えついたことを投稿させて頂きますので宜敷くお願い申し上げます。

すみません。本当はここの項目に書き込むべき話題ではないのですが、東急線絡みで無理やり書かせていただきます。(不適切なら、移動いたします。指示していただけたら幸いです)
実は、不思議で仕方がないことがあるのです。
You Tubeで、「You Tube 第12回 日本ダービー」と検索すると、興味深い動画が出てきます。
で、競馬の方は、さておき。この動画の一番最初に出てくる電車と駅があります。
恐らくこの駅は、「東府中駅」だろう。という推察をいたしておりますが、問題はこの電車の車両でして。横にはっきりと「TKK」のロゴが。そしてこの動画は昭和18年6月なのです。第12回ダービーの動画なので、日付は動かせません。京王線が、大東急となり、東急に併合されたのは、昭和19年5月の話です。では一体この冒頭の電車はなぜ「TKK」なのでしょう?私は、鉄道に詳しくないので、その辺り、教えていただけたら本当に幸いです。どうかよろしくお願い申し上げます。 m(_ _)m

確かにT.K.Kと打たれていますね。東京急行電鉄を名乗るのは昭和17年(1942年)5月からですが、T.K.Kと車輌に記載するのはいつからなのか。京王電気軌道の合併時期もさることながら、T.K.Kと記載するのは戦後になってから、という印象を持っています。
また、同じ映像から2128だとわかるので、これが京王電気軌道125形ということがわかります。2128は京王電軌時代は128とナンバリングされており、大東急の傘下に入ってから2128となったので、このことからも昭和18年の映像であることはおかしいとなります。
よって、考えられるのは、あのニュース映像(TV放映以前なのでニュース映画の編集でしょう)を作った際、戦後の映像(電車部分)と昭和18年の映像(競馬部分)を混ぜた結果であり、それを後世の者がその当時の映像として利用したのではないでしょうか。

りっこ様
XWIN II様
 英米文化排斥が叫ばれている戦争末期にわざわざTKKの文字を入れることは考えられません。乗客の服装も戦闘帽と国民服が見られません。写真が不鮮明ですので私は判読する技術を持っておりませんが、若し尾灯が両側に2個あれば間違いなく戦後です。
 編集者の知識の不足が世論をリードするという恐ろしい結果を招くことがあるので、常に疑問を持って検証する必要がありますね。

XWIN Ⅱ様
木造院電車両マニア様

ありがとうございました! XWIN Ⅱ様の論理的なご解説。そして、戦争を肌で体験なさっておられる木造院電車両マニア様のコメント。心の底から感服と、感謝です。
そうですね!当時は「敵性英語」ですもんね。野球ですら、ストライクが「よし」ボールが「だめ」というような時代だったんですものね。
それから、国民服と戦争帽の件。私がこの画像を見て、違和感を感じた原因がわかりました。
疑問が氷解いたしました!

すいません、別の質問になってしまいますが、六間通りの由来をご存知の方いらっしゃいましたら教えていただけますか?

「六間通りの由来」についてですが、よくありがちな三間通り、四間通りなどと同様に「道路の幅員」に由来しています。道路が拡幅された際、その幅が六間だったことから通称が転じたとなります。
1間=約1.8メートル。

xwin ii様
六間通りや日本一長い商店街の三間通り
このような区画整理は電鉄会社と耕地整理組合との緊密な連携と組合長の利害調整の政治能力の如何によって左右されます。荏原郡玉川村と平塚村の地域はラビリンス化している経堂や和泉町のような他の世田谷の地域と比較して成功しているのも、今日の田園都市線沿線のように東急の貢献が大きかったと思います。この話題が取り上げられましたので投稿した次第です。

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