前回の続きです。その3までBlog記事が続くのは何時以来やら(苦笑)。
米軍による、東海道本線から京急穴守線の貨物線は、1952(昭和27)年まで利用されていた。サンフランシスコ講和条約締結の翌年である。羽田空港は数千人に及ぶ住民強制移転の犠牲によって拡張されたが、これもすぐに手狭となる。
そして、1959(昭和34)年5月、1964(昭和39)年に東京でオリンピックが開催されるという決定によって、海外からの選手関係者や観戦客の入国などで羽田空港の価値が大きく高まると、いよいよ京急穴守線の出番かと期待はされた。当時、運輸省は京浜急行電鉄にその話を伝えたものの、投資を本線並びに路線延長に費やしたいという意向で断ったことが、その後の空港敷地への乗り入れの大きな足枷となった。この断り方は、後に蒲蒲線建設を大田区が京浜急行電鉄に依頼した際に断った理由と同様の類いのものである。
東京オリンピック決定を報じる読売新聞(部分。昭和34年5月27日付紙面)
ただし、路線名称は1963(昭和38)年11月1日に穴守線から空港線に変更した。京浜急行電鉄が運輸省からの要請を事実上断った理由は何だろうか。今から振り返れば、その後の空港線の低迷を知っているのでバカなことをとなるが、当時は、日本人が海外に出かけること自体が規制されていた時代。旅客輸送として意味はないに等しかった。東京オリンピックで一時的に需要が伸びても、その後の空港需要を考えれば、投資効果に見合わないと判断したのだろう。
だが、この判断が誤りと確定したのは、1964(昭和39)年4月に実施された、いわゆる海外渡航自由化(OECD勧告による外為規制緩和)である。東京オリンピック開催半年前に実施されたこの施策によって、羽田空港へのアクセス価値は飛躍的に高まる(とはいえ、海外旅行の価格は高く、ハワイへの7泊9日食事付で36万4千円。これは当時の大企業大卒初任給の1年半分に相当)。この結果、羽田空港へのアクセスは東京モノレールに委ねられることになる。海外旅行どころか飛行機に乗ること自体が珍しい時代は、国内線であってもモノレールに乗って都心に出るというのはステータスであったろう。
一方、名ばかりの京急空港線は完全に冬の時代を迎えた。かつては品川方面からの直通運転が行われていたが、京浜蒲田駅〜羽田空港駅折り返し運転のみとなり、往時の東急池上線よろしく旧態依然とした車輌たちの最期の活躍の場所となった。一方、海外渡航自由化によって、年を追う毎に羽田空港の需要は逼迫し、飛行機の大型化も相俟って、空港近隣住民の騒音被害はピークに達していた。WECPNLを単位とするうるささ指数は85や90を超えるという、とんでもない状況が続いていたのである。地元大田区では、運輸省と直結した組織を作り、騒音被害に苦しめられる主に羽田地域の住民に対して、民家防音工事施工を行わせるなど、羽田空港は大きな問題を惹起していた(この辺りは大阪の豊中辺りでも同様の事情だと思われる)。
こうなることは国もわかっており、それが現在の成田国際空港に結実するが、成田闘争で知られる反対運動から開港、続く拡張計画もままならなかったため、いよいよ羽田沖合展開という選択肢が表れてくる。これは、羽田空港地先を埋め立て、騒音被害と空港用地拡張という一石二鳥の計画である。しかし、横田基地の米軍空域問題や肝心の東京都知事が反対の急先鋒に立っていたため、この案はしばらく店晒しにされていた。これが進むようになるのは、美濃部都政から鈴木都政へと変わったことで、ようやく沖合展開事業が開始されるのである。
長々と現在の羽田空港に至るまでの歴史を追ったのは、蒲蒲線の相手となる京急空港線の長年の不遇を示すためである。ここまで見てくればわかるように、京浜急行電鉄は穴守線(空港線)ですら、東京オリンピック開催に合わせた延長を断っていたのである(かつては海老取川を超えて穴守駅までの権利を有していたにもかかわらず)。当然のことながら、それ以上にメリットのない京浜蒲田駅から蒲田駅への接続などあり得ないわけだ。といったところで、今回はここまで。次回に続きます。
コメント