日本時間19日午後11時半過ぎから、20日午前10時半頃までの11時間ほど、TypePad側の問題によりつながらなかったようです。謹んでお詫び申し上げます。
「碑文谷耕地整理組合(東京目黒区ほか)の範囲とその概要」のコメント欄に頂戴したご質問にお答えしようと書いているうち、コメント欄に書く量を大きく超えてしまったので、記事化することに…(苦笑)。というわけで、以下から回答スタートです。
当方がどのように調べているか、については複数史料(資料)にあたるよう心がけているのが第一で、それに今までの知識の積み重ねから解釈することを第二としています。何でもそうですが、正確で唯一無二の資料というのはなかなかなく、複数のものを照合していくという作業が欠かせませんし、時間もかかるところです。
さて、これを踏まえてお答えしていくと、
1.字瀧原下となった荏原町の区域には、中延の飛地のほか、大字小山字瀧原や字平滝が含まれていたかどうか
いわゆる散在飛地(詳細地図にしか表れない飛地で土地台帳(登記簿謄本等)を閲覧しないと正確なところは不明)は、耕地整理時にきれいに片付けられるのが定番です(そもそも地番整理が目的の一つ)。2のご質問とも関連しますが、道路や鉄道や改修された河川に合わせて地番境界が新たに定まるということは、当然、地番を包括する字や字を包括する大字、そして町村境界に影響を及ぼします。よって、境界線が変更され、それが互いに影響し合うエリアであれば含まれる(というかお互いでやりとりがある)となるわけです。
2.「字平滝」があったとすると、それは明治末発行の地番入り地図では大崎村大字谷山の平塚村内の飛地であったのですが、この耕地整理直前(昭和5年)の時点では荏原町大字小山に編入されていたかどうか
1でお答えしたとおり、字間のやりとりがあれば、それが大字境界に位置している字であれば当然やりとりがあった。つまり、編入されたとなるわけです。大字中延飛地が大字小山に編入された以上、それよりも小さな飛地が編入されないはずがないからです。
3.上記2.で編入されていたとしたら、その時期。
難しいのがこの時期の特定です。簡単に流れを示せば、
- ①耕地整理組合地の整理案確定
- ②耕地整理工事・施工
- ③施工後の地番整理案(①と同じにはならず変更・修正が多い)
- ④耕地整理組合案確定
- ⑤所管町村で案追認・東京府へ申請
- ⑥東京府が許認可
となり、⑥が許認可した年月日をもって「正式に」確定したとなります。当方が採用する年月日は、東京府が告示した資料から特定していますが、地元では正式な地番・名称となる前から使用することがほとんどです。自明ですが、当局が認定しようがしまいが、旧地番が不便であるのに変わりはないのですから、遅くとも東京府申請時、早ければ案が確定した頃から使用されるのです。また、洗足田園都市のように自主的に洗足町を名乗ったり、地番でなく分譲番号等も使われていました。このようなことをどう考慮に入れるべきか。公式ばかりにとらわれてしまうと、実態としてあり得ない歴史記述となってしまう危惧もあり、悩ましいところ、というわけです。
4.「碑衾町に属さない弁天町は平塚町から正式字名として認められず、幻の字名となった」とありますが、字瀧原下も同様でしょうか
消極的解釈です。碑文谷耕地整理組合としては荏原町(平塚村→町)に属する当該エリアを「弁天町」と定めたのですが(3の回答でいうと④まで)、碑衾町はこれを東京府に申請し許認可を受けた一方で、荏原町はこれを行った形跡が見られないのです。つまり荏原町から申請がない以上、許認可されることはあり得ないので、弁天町は正式採用されていないと解釈しました。もっとも、3の回答でふれたように公式ではないものの、地元では通用させていましたので消極的解釈ではありますが…(よって公式には弁天町エリアは字根川原と字池ノ谷)。そして瀧原下も同様なのですが、こちらは隣接する三谷耕地整理地と地番すり合わせを行い、地番変更と字瀧原に統合されました。ただし、荏原町レベルでは字弁天町も字瀧原下も通用していたことは確認できています。
2014年5月23日追記:東京府広報を再確認したところ、昭和5年(1930年)12月23日に碑文谷耕地整理組合地に属する荏原町の一部が「弁天町」として起立していたことを確認しました。同日には大字中延飛地である字大下等も「瀧原下」として起立しています。よって、正式字名となったと訂正します。
5.上記4.引用部分の「認められず」について、これを示す史料など
4の回答で述べたとおり、消極的解釈です。つまり、東京府の許認可がないので公式ではないという立場です。ですが、単に東京府への申請を行っていないだけで、地元としては通用していた(それどころか荏原町レベルでは公式扱いかも)可能性までは否定していません。むしろ、当然のように通用していたという解釈です。ここまでの議論を行っているので、蛇足とは思いますが、公式というのをいかいどのように扱うかというのは難しく、こればかりになってしまうとあり得ない歴史記述となってしまうおそれも出てきます。
2014年5月23日追記:4の追記でふれたとおりですので、東京府告示が史料となります。
といったところで、ご質問に対する回答はここまで。
迅速、かつ、詳細に御回答いただき、本当にありがとうございます。
4、5については、「~がなかった」ことの実証は本当に難しいことですね。
ただ、登記簿や土地台帳には、「弁天町」や「瀧原下」の字名がでてくるのはみたことがありますので、質問させていただきました。
1~3の質問は、説明不足があり、大変恐縮です。
明治末の地番入地図をみると、「字瀧原下」となる部分は、「平塚村大字小山字瀧原」「平塚村大字中延字大上(飛地)」「大崎村大字谷山字平滝(飛地)」となっています。
私が知りたかったのは、字平滝の変遷について、
①大崎村大字谷山字平滝→平塚村大字小山字平滝→平塚村大字小山字瀧原下
②大崎村大字谷山字平滝→平塚村大字小山字瀧原下
のどちらであったのか、という点と、もし①であれば大崎から平塚に変わった時期はいつか、という点であります。
投稿情報: 地番マニア | 2014/05/21 03:52
ご質問について、もう一度じっくり史料を読み漁ってみました。その結果、史料の見落としを発見できました。本文中に追記・訂正を行っていますので、ご確認いただきつつ、このようなチャンスをいただけたことに感謝申し上げます。おかげで過ちを解消できました。
さて、ご質問の字平瀧についてですが、正解は①、②のどちらでもありません。明治22年(1889年)の町村制施行に伴う合併の際、谷山村は大崎村の一部を構成しますが、飛地である字平瀧は大崎村ではなく平塚村に合併されたのです。つまり、
谷山村字平瀧→平塚村大字谷山字平瀧→平塚町大字谷山字平瀧→荏原町大字谷山字平瀧→荏原町大字小山字瀧原下
ということです。字平瀧は、一度として大崎村(町)には属していなかった、と。
投稿情報: XWIN II | 2014/05/23 22:24
ありがとうございます こちらの追加コメントを拝見しないまま、別のコメントを出してしまいました。申し訳ありません。
なるほど、谷山の飛地は谷山村時代で終わり、町村制の際に飛地が解消され、平塚村の方にも大字谷山ができたということでしたか。これを示す史料があったということでしょうか?
すると、2つの点で私の持つ史料と齟齬が生じてしまいます。
まず一つは、以前から引き合いに出している、明治44年の「地番入平塚村地図」ですが、こちらには、平塚村大字小山の中に「谷山飛地」という場所が3箇所でてきます。私はこれをみて大崎村大字谷山の飛地と判断していたのですが、明治22年にすでに大字谷山が平塚村内にできたとすると、もはや飛地ではないので、この「谷山飛地」という表示がおかしいことになります。また、この地図では、「谷山飛地」の部分だけ地番が書きこまれていないのですが、飛地が解消されているのであれば、平塚村として堂々と地番が書きこまれてもいいかと思います。
またもうひとつは、現在小山3丁目に257-3という地番の登記簿です。これは谷山飛地の字平滝の地番を継承する唯一の土地と思われます。地番は、地租の徴収のために明治初年に当時の宿町村ごと(明治22年以降は「大字」)に連続する番号が振られました。その時は、字平滝は、小山村内の谷山村の飛地であったのですが、谷山村の多くが存在した大崎村周辺の最後の地番が251で、これは明治末の大崎村の地番入地図(この地図の時点では大崎村大字谷山)で確認できます。即ち、平塚内の飛地の字平滝の地番は252番から振られていたことが推測され、この小山3丁目の「257-3」は字平滝の由来と考えられます。このほかの字平滝の地番は、三谷耕地整理か碑文谷耕地整理の対象となり、新しい地番が振り直され、両事業の境であった東急線の敷地だけが、耕地整理の対象外で、もとの地番が残ったと考えられます。
長くなりましたが、「小山3丁目257-3」は現在も存在する地番ですので、さかのぼって登記簿をとると、大正10年12月8日に「平塚村大字小山字平滝257番」から分筆されたものであることがわかっています。東急線を整備するため分筆し、257-3は大正11年10月1日に目黒蒲田電鉄の所有となっています。257-1と257-2は、それぞれ三谷耕地整理と碑文谷耕地整理の対象地となったとみられ、地番が振り直されてしまい、残っていません。
何がいいたいかというと、分筆時の大正11年の登記簿の「平塚村大字小山字平滝」が正しいとすると、御指摘の経過と異なってしまうということです。これが2つめの疑問点です。
従いまして、御指摘の「町村制移行時に字平滝は平塚村に吸収された」という史料と、「明治44年平塚村地番入り地図」「大正11年分筆平塚村大字小山字平滝257-3登記簿」の間にギャップがあるとみられ、それをどう解釈すればいいか、という疑問です。
投稿情報: 地番マニア | 2014/06/05 20:12
列挙型回答でいきます。
Q1:なるほど、谷山の飛地は谷山村時代で終わり、町村制の際に飛地が解消され、平塚村の方にも大字谷山ができたということでしたか。これを示す史料があったということでしょうか?
A1:明治22年町村制施行時に、東京府から府令第25号(明治22年4月11日公布、同年5月1日施行)が出、ここに「平塚村は、戸越村、下蛇窪村、上蛇窪村、中延村、小山村、谷山村飛地字平瀧を合併」、「大崎村は、下大崎村、上大崎村、谷山村(飛地字平瀧を除く)、桐ヶ谷村、居木橋村、白金村字長者丸、今里(元増上寺下屋敷)、北品川宿目黒川西南(鉄道・碑文谷道以北)を合併」とあり、どちらから見ても字平瀧が平塚村に属したことは自明です。
Q2:明治44年の「地番入平塚村地図」ですが、こちらには、平塚村大字小山の中に「谷山飛地」という場所が3箇所でてきます。私はこれをみて大崎村大字谷山の飛地と判断していたのですが、明治22年にすでに大字谷山が平塚村内にできたとすると、もはや飛地ではないので、この「谷山飛地」という表示がおかしいことになります。
A2:これはいわゆる東京逓信局地図かと思いますが、同じものは私も明治44年版の他に大正6年版を持っています。仰せのとおり、どちらの版でもご指摘どおりであり、また字名一覧表にも記載がありません。一方、大崎村逓信局地図でも平塚村側の飛地についての記載はなく、完全に無視された格好になっています。飛地表記は、おそらく正確性を重んずるというよりは郵便配達に困らないようにするためのもの(詳細はA3にて)で、3つの飛地のうち、表記上は2つは飛地で正しく、一つは本体(飛地表記なし)なので飛地表記は正しくないのですが、谷山村本体が大崎村に合併されたことで、散在するその他はすべて「飛地」扱いとされていた可能性もあるでしょう。何にしても、字平瀧が東京逓信局地図に存在しないのは、谷山飛地という表記以外は間違いないところです。
Q3:分筆時の大正11年の登記簿の「平塚村大字小山字平滝」が正しいとすると、御指摘の経過と異なってしまうということです。
A3:A1で示したように、大字谷山字平瀧は新たに誕生した平塚村に合併されたわけですが、ここでいわゆる谷山飛地は、大字谷山を平塚村で構成せず、大字小山に吸収合併されたということかと。明治22年資料(史料)が詳しくないため、どの大字に継承されたか(あるいはそのまま大字を構成したか)が不明であったので、大字谷山と推定したのですが(私も逓信局地図の「谷山飛地」表現に影響を受けた)、これは誤りだったことになります。よって、おそらくは、『谷山村字平瀧→平塚村大字小山字平瀧→平塚町大字小山字平瀧→荏原町大字小山字平瀧→荏原町大字小山字瀧原』となるかと。また、地番257-3に関連してですが、国土地理院地図の前身である参謀本部陸地測量部地図には、武蔵小山駅近くの朗惺寺に隣接する建物に260番地(今のラオックス井門あたり)とふられていますが、これも字平瀧の地番に相当します。ですが、このために大字小山のうちに同一地番が複数存在することになり(元の小山村所属で254~331番地が字中三谷)、荏原郡平塚村小山260番地として郵便物を出すと字平瀧なのか、字中三谷なのか識別困難となります。字名まで書けばいいのですが、事情を知らなければなかなか字名まで書いてはくれません。こういう経緯があって、わざわざ谷山飛地と逓信局地図では表記している可能性もあるのかな、と。
長くなりましたが、有意義なご指摘に感謝申し上げます。
投稿情報: XWIN II | 2014/06/07 08:32
今回いただいたコメントで、疑問だったことのいくつかが解けてきました。本当にありがとうございます。
1.谷山村の小山村内飛地の解消、残る疑問
・これは明治22年の町村制施行時で疑いようがありませんね。問題は平塚村の中でどの大字に属したかですが、大正10年には大字小山であることがわかっているので、御指摘のようにこ明治22年の時点で大字小山となったとみるのが妥当と思います。
残る疑問は、「なぜ逓信地図で飛び地扱いになり地番も地図に書き込まれなかったのか」、「なぜ字滝原、字中三谷の地番との調整が行われなかったのか」、です。前者については、御指摘のように三カ所に分かれるので広い区画以外の2箇所は飛地のままで間違いありませんが、それでも「字平滝」の飛地であって、谷山の飛地ではなくなっています。なお、後者の事例はほかにもありますね。
2.字平滝260番地、残る疑問
実は、字平滝には、現在も残る257-3のほか、258~260がかつてあり、259、260は大正6年に258へ合筆されていることがわかっています。私は257-3の現在地に隣接していたと思っていましたが、今回の御指摘で、別の飛地であったことがわかりました。この飛地は三谷耕地整理事業の対象となり現在では違う地番が振り直されています。
残る疑問は、「字平滝の地番は261番以降もあったのか、あったとすれば何番までだったか」「字平滝の土地は三区画に分かれるが、それぞれの地番は何か」です。現在の品川区内の地番で、唯一、この字平滝部分の全容がわかっていません。
3.北品川宿の一部の大崎村編入
北品川宿の字百反耕地の一部が大崎に組み入れられ、大字居木橋に属していることはわかっていました。しかしながら、その時期が長らく不明でした。今回のコメントでその点も解消いたしました。
こちらの方は、きちんと逓信地図にも元品川として大字居木橋に組み込まれているのに、さきほどの字平滝の扱いは随分と違い可哀そうです。ちなみにこの部分の大字居木橋での地番重複はありません。
投稿情報: 地番マニア | 2014/06/10 04:42
私のコメントで、字平滝と地番が重複している字は、字中三谷と字平塚でした
投稿情報: 地番マニア | 2014/06/10 07:58
すっかり記事よりもコメントの方がはるかに長くなってきましたが、気にせずに行きます。
Q1:なぜ逓信地図で飛び地扱いになり地番も地図に書き込まれなかったのか?
A1:これは、現時点では(というか今後も)本当にはかりようがない問題ですね。作った人が、どうしてそのようにしたのかということなので。他の逓信局地図を見ても、このような表記はなく(小さな飛地であっても地番が明記)、気になるととことん気になるといいますか…。
Q2:なぜ字滝原、字中三谷の地番との調整が行われなかったのか?
A2:これはコメント中でもご指摘のように、町村合併時に他村の飛地等を吸収合併した際に見られるもので、荏原郡内だけを見ても馬込村などいくつか散見されます。大字内の同番地だったとしても小字で識別できますし、家屋がないところに郵便物を配達する先の地番はないのと同じですから、家屋が少ない頃では「実害」がほとんどなかったからだと思います。同番地問題はむしろ、都心(旧東京15区)に多く見られ、大きな屋敷が分割される際、複数に分筆されたにもかかわらず地番はすべて同じとなり、枝番や特殊番号の採用など工夫が見られます。横道にやや逸れましたが、調整を行うまでもないというのが真相かもしれませんね。
Q3:字平滝の地番は261番以降もあったのか、あったとすれば何番までだったか?
A3:材料がないので何とも言えないのですが、一般的には地租改正の時に作成された土地台帳(図)があればはっきりします。ただ、それが残っていればということでしかありませんが…。同じく三谷耕地整理組合の作成した整理前、整理後の比較図。これも残っていればというレベルです。あいにく整理後のものしかなく、整理前のものは手もとにありません。
Q4:字平滝の土地は三区画に分かれるが、それぞれの地番は何か?
A4:A3と同じく史料がなければ何とも…。
ほとんど何の参考にもならない今回の回答ですが、これが現状ですのでご容赦願います。
投稿情報: XWIN II | 2014/06/11 20:15
ありがとうございます
幻の字平滝ですね
地番入り地図のブルーマップで257-3を発見してから解析をはじめましたが、260の位置、明治22年の平塚村への編入など、多くがわかりました。
東急の敷地に字平滝があり、耕地整理を逃れて、奇跡的に地番が残っていました
投稿情報: 地番マニア | 2014/06/12 04:17