今回は、碑文谷第二耕地整理組合の施工地が耕地整理前、どのような字名(地名)があったのかを示す。
現代の航空写真をベースに、昭和7年(1932年)9月9日まで現役だった字名とその境界を示したが、字名を列挙すると、
- 五本木前
- 馬引沢境
- 北三谷
- 三谷
- 鷹番
- 西ノ前
- 西池下
- 田向
- 殿山
- 東谷戸(大字衾)
五本木といえば、現在まで続いている目黒区の町名の一つであるが、この当時も碑衾町に隣接する目黒町の字名に「五本木」があり、碑衾町側に「五本木前」が存在するという構図になっている。つまり、五本木に隣接しているから五本木前というわけだ。ちなみに五本木前の南側の境界は、品川用水である。
馬引沢境も五本木前と同様に、隣接する駒沢町にあった馬引沢(今では上馬、下馬となっているが、これは省略形であって、元は上馬引沢、下馬引沢といった)に隣接していることによる。北三谷及び三谷は集落としての名前がそのまま字名に継承され、鷹番は江戸期よりのもの、となっている。
また、東谷戸の一角は、碑衾町大字衾字東谷戸の一部で、この逆三角形状のエリアは明治中期以降の変遷だけを辿っても、駒沢村から碑衾村に異動した後、大字衾に属したまま碑文谷第二耕地整理組合に入って耕地整理事業を行ったものの、東京市合併時にはなぜか世田谷区に属し(このあたりは地図情報のみからの判断であり、情報が矛盾しているため今後の課題)、その後に目黒区に属するという変転をとげる。
この大字東谷戸の一部は例外だが、字地域すべてが耕地整理に一体として事業化されてはいない。鷹番、田向、西池下は一部または大部分が属し、旧目黒通りや北里研究所の敷地(鷹番小学校が不自然な形で切れている理由)を事業地境界とした。
といったところで、今回はここまで。
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