直近三回は、「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」(昭和三年二月、東京市役所)という書籍をネタに、池上電気鉄道、目黒蒲田電鉄(と東京横浜電鉄)、玉川電気鉄道と今日の東京急行電鉄を形作った鉄道会社を取上げてきたが、今回は引き続き、いわゆる大東急を形成した鉄道会社の一つである京浜電気鉄道を取上げる。京浜電気鉄道は、五島慶太が地下鉄戦争(東京高速鉄道と東京地下鉄道との争い)における兵糧攻めで、東京地下鉄道が合同しようと目論んだ京浜電気鉄道を先に自社(東京横浜電鉄)に合併させてしまおうという強引な手段で消滅した。京浜電気鉄道としては、品川から都心方向への進出に東京地下鉄道との相互乗入れによって目指したばかりに、五島慶太に乗っ取られたというわけである。
では早速、「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」89~93ページの「京浜電気鉄道株式会社線」と冠された文章を以下に引用する。なお、漢字は常用漢字に置き換え、仮名づかいも現在のものに置き換えている。
創立………………明治三十一年三月
開業………………同三十二年一月
資本金(公称)…一千五百万円
資本金(払込)…一千五万円
営業線亘長………十七哩七十鎖
軌間………………四呎六吋
車輌ボギー車……六十輌
車輌 貨車………十七輌
運輸従業員………八百一名
兼業………………地方鉄道、電気供給、土地家屋、工場経営、運河
(昭和二年五月末日現在)
当社は明治三十一年三月資本金九万八千円を以て創立せられ、翌三十二年一月川崎を起点とし川崎大師停留場に至る一哩三十八鎖の単線運転を開始したが、之れ実に東京市附近に於ける郊外電車の濫觴である。
本社は当初台紙電気鉄道株式会社と称したが明治三十二年四月京浜電気鉄道と改称し、やがて資本金を八十五万円と為し、次第に事業を拡張した。即ち左表に示すが如く、明治三十四年には川崎、南馬場間及び大森海岸、大森駅前間が開通し、次て糀谷、穴守間、品川南馬場間が竣工し、明治三十八年に至り川崎、神奈川間の連絡が完成した。而して其の後大正二年に蒲田、糀谷間が開通し、越えて大正十四年三月に至り市電と線路の一部共用を約することにより現在の高輪駅迄伸長したのである。
尚同年十月には当社の分身たる海岸電気軌道株式会社(注)の総持寺駅川崎大師間の迂回線が開通し、当社線と共同運転を開始するに至った。当社の現在営業線は省線品川駅前の高輪駅を起点とし横浜市の京浜神奈川駅に至る十三哩五十四鎖の本線と、大森海岸、大森駅前間の三十二鎖、京浜蒲田、穴守間の二哩二十六鎖及び川崎、川崎大師間の一哩三十八鎖の各支線とを併せ十七哩七十鎖であるが、内東京都市計画区域内に属する路線は六郷土手駅を限り総長七哩四十二鎖である。
高輪-品川……………… 〇哩三八鎖 大正一四、 三、一一
品川-南馬場…………… 〇哩五四鎖 明治三七、 五、 八
南馬場-川崎…………… 六哩二六鎖 同 三四、 二、 一
川崎-神奈川…………… 六哩一六鎖 同 三八、一二、二四
計…………………………一三哩五四鎖
大森海岸-大森駅前…… 〇哩三二鎖 同 三四、 二、 一
蒲田-糀谷……………… 〇哩四四鎖 大正 二、一二、二六
糀谷-穴守……………… 一哩六二鎖 明治三五、 六、二八
計………………………… 二哩二六鎖
川崎-川崎大師………… 一哩三八鎖 同 三二、 一、二一
合計………………………一七哩七〇鎖
(注)海岸電気軌道株式会社は大正九年十一月の創立にして京浜電気鉄道と同一資本系統に属する会社である。現在は別個の組織となって居るが、資本金二百五十万円の中百五十万円は京浜電鉄の持分に属し、又実質上同社の経営する所であって早晩両社は合併するものと予想されている。海岸電軌会社は現に大正十四年十月に開通した京浜電鉄本線の総持寺駅より鶴見埋立地を迂回経由し京浜線の川崎大師駅に接続する五哩の営業線を有している。
次に当社の旅客運輸業績に就て述べんに、旧時のことは其の資料を欠き明かでないが、今仮に累年の利益計上率等に依って其の一班を窺えば、当社線には古くから有力な競争線たる国有鉄道があり常に圧迫を蒙りつつあったが、殊に大正四年京浜間に省線(当時院線)電車開通以来京浜直通客の大部分を省線に奪われ、為に相当経営難を来した様であった。然し乍ら其の後欧洲大戦の勃発に因って招来されたる好景気に依り京浜間に多数の工場が建設され、沿道の漸く開けるに従い人口増加し、従って乗客も亦増加したので、大正七年上半期から次第に順況に趨いた。
然るに這般の大震災に依り会社は再び大打撃を蒙ったが、一方彼の大震火災に基く東京市人口の大移動に伴い沿線の各町村に移住したるもの多かりし為著しく乗客数を増加し、其の最近に於ける乗客及賃金の状況は次の通りである。尚次表に依れば震災後に激増した乗客数は、大正十四年上半期を頂上として漸く減少に向って居るが、之れ主として沿線の工場地帯が一般経済界不況の余波を受けて業務沈滞したるに因るものと察せられる。尚大正十四年十一月省線の上野、神田間開通後に於ける横浜、上野間直通の影響も亦一因として考えらるべきであろう。大正十五年度中の乗客及賃金は一日平均夫々九万八十七人、七千十一円である。
(次表略。)次に当社の計画線としては、高輪駅より白金猿町に至る六十七鎖と、横浜市では京浜神奈川駅から長者町迄の市内乗入線とかあるが、何れも目下工事中である。此外新出願線としては幹線京浜蒲田駅より分岐し、省線東海道線及山手線を横断して大崎町五反田附近を迂回し、芝区札の辻に達するものがあるが、この延長は六哩八分、軌間四呎八吋半で五反田より札の辻に至る約二哩は地下式とする計画であると云う。更に又鶴見花月園内に停留場を設け、架橋に依って省線を越え遊覧客を計画線に誘う目論見があると聞くが孰れも実現期は未定である。
さすがに関東最古の郊外私鉄といわれるだけあって、これまでの三社と比べても長文だが、路線長も品川から神奈川までと3つの支線から構成されるそれは、最も長いものとなっている。興味深いのは、本文中にも「旧時のことは其の資料を欠き明かでないが」とあるが、乗客数及び運賃収入が大正11年下半期からの記録しかなく、それ以前ははっきりしないことである。理由は、関東大震災で関連する書類が焼失したともいわれるが、実際そのとおりかは何とも言えない。ただ、平行する強力な競争相手があるにしても、京浜間を走る実力は相当なもので大正15年度の乗客数及び運賃収入は、これまでの3社と比べてもはるかに多い。
さて、続いてはおそらく錯誤ではないかと思うのが、京浜蒲田(現 京急蒲田)~糀谷間の開通日で、糀谷から穴守までは明治35年となっているのに、途中の京浜蒲田~糀谷が大正2年となっていることだ。京急自身は社史で蒲田(京浜蒲田)~穴守間を明治35年6月28日としており、大正2年は月日が異なるが、穴守稲荷神社(戦前は羽田空港敷地内にあった)参道前まで延長した路線が開業としている。この異動については、明治期の史料(資料)が当時の東京市にはなかったことから、別の資料によったと見るが、切れた盲腸のような路線開業があるのだろうか?と考えると、本書の方の誤りかと思う。このほかにも細かい点として、最初に開業したのは川崎~川崎大師ではなく六郷橋~大師であるのだが、まあ本書にとっては細かすぎる指摘か。
他には、計画路線を眺めれば、当初提携していた池上電気鉄道から東京地下鉄道へシフトしていった様子もうかがえよう。池上電気鉄道との関係は古く、京浜電気鉄道大森駅前停車場と接続する前提で、大森~池上間を本線として計画していたのだが、まったく進捗する様子が見られず、蒲田~池上~雪ヶ谷~五反田へと進んでいくことで、今度は白金猿町まで迎えに行ってやろうという計画線を用意した。
そこまでしておきながら、今度は都心方向への乗り入れを東京市電から東京地下鉄道へと改めると同時に、都心への接続方法を品川まで東京地下鉄道線を待つものと、新路線を新たに京浜蒲田から五反田へ延ばし、さらに札の辻まで自社線(そして東京地下鉄道線と乗り入れ)を用意するという意欲的なプランを用意した。しかし、膨張する東京は大東京となり、市境だった白金猿町は意味を失い、東京市電は白金猿町から五反田駅前まで乗り入れる。そして大戦後の不況と昭和恐慌によって、計画線は画餅に終わる。京浜電気鉄道の運命は、最初に書いたように地下鉄戦争のさなか、東京横浜電鉄へ合併されて終わるのである。
では最後に、本書掲載の「京浜電軌鉄道営業路線図(昭和二年七月一日現在)」を掲げて、今回はここまで。
前掲の交通と電気誌の1930-10の「湘南電気鉄道新型電車に就いて」の記事の中で、「この電車は、前述のごとく、京浜電鉄の600V及び東京地下鉄道第三軌条式600Vに乗り入れ運転をするもので、二重電圧方式を採用して居ります。」と述べられていますが、後日の五島慶太と早川徳次の攻防戦で地下鉄への乗り入れは実現されなかったどころか、戦時中の資材の不足で、京浜電鉄は神奈川で、湘南電鉄は横浜で折り返しとなり、乗客は二駅間の徒歩連絡を強いられた悲しい思い出があります。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2014/02/02 16:09