前回(その2)は、山手線が日本鉄道から国有化されるところまで話を進めたので、今回はその続きから。
1906年(明治39年)11月1日に国有化されて以降の大きな異動は、1909年(明治42年)に電車運転(電化)が開始されたことで、同年、大崎~品川間も複線化がなり、この電車運転のタイミングで代々木駅が開設される。既に代々木駅は甲武鉄道によって開業されていたが、電車対応となったことで駅間が短くても対応できるようになったことが大きいだろう。そして翌年(1910年)には目白~新宿間に高田馬場駅、赤羽~板橋間に十条駅、田端~巣鴨間に駒込駅が開業し、さらにその翌年(1911年)には目黒~大崎間に五反田駅が開業する。電車運転開始によって、明治末期には旅客鉄道としてのウェイトがさらに高くなってきたことがわかる。
国有化後、明治までの間に新たに開業した駅が所属する当時の町村名を列挙すると、
- 代々木(東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町大字千駄ヶ谷字新田)
- 高田馬場(東京府豊多摩郡戸塚村大字戸塚字清水川)
- 十条(東京府北豊島郡王子町大字下十条字仲道)
- 駒込(東京府北豊島郡巣鴨町大字上駒込字伝中)
- 五反田(東京府荏原郡大崎町大字上大崎字子ノ神下)
以上のとおりとなる。
まず、代々木駅については、既にあった甲武鉄道(日本鉄道と同様に国有化された)の駅との乗換駅として開設されたため、ネーミングについてはそのまま継承している。よって、甲武鉄道の駅ができた当時の町村名が重要だが、山手線の代々木駅開業時と異なるのは千駄ヶ谷町が町制施行する前だったのみで、府郡大字小字については変わりがない。つまり、代々木駅の場所は千駄ヶ谷村(町)にあり、本来なら千駄ヶ谷としたかったところだが、同時期に隣駅に千駄ヶ谷駅を設けていたため、隣接地名となる豊多摩郡代々幡村大字代々木の名を拝借したというわけである。
そして高田馬場駅。これは当局もかなり悩んだのではないか。というのは「戸塚」といえば、やはり東海道の宿場町だった戸塚が有名であり、既に鉄道駅も存在していた。村名も大字名も戸塚であるので、残るは字(小字)名となるが、これも清水川と今一つ。戸塚村内の隣接大字も「諏訪」であり、長野県がイメージされるので、他に…となると神田川が当時の北豊島郡と豊多摩郡の境界(今でも豊島区と新宿区の境界)であったので、北側の有力名も採用しがたい。そこで出てきたのが、堀部安兵衛の高田馬場の決闘で巷間流行っていた「高田馬場史跡」に因んだ「高田馬場」であり、戸塚村の顔も立つ(高田馬場史跡は戸塚村内にあった)という流れである。今では、駅含めた周辺の町名として高田馬場(一丁目~四丁目)となっているが、そもそも高田とは豊島区側にあった村名に由来し、川の上流には上高田(中野区)がある。なので、様々な意味で拝借地名採用と言えなくもない。
そして十条駅については、所属する北豊島郡王子町の王子は既に採用駅があったので、大字名から採用。駒込駅についても北豊島郡巣鴨町の巣鴨は既に採用駅があり、大字名からの採用となった。
残る五反田駅については、なかなか珍しいケースとなっている。町名も大字名も大崎なので、既にある大崎駅からどちらも採用しがたい。とはいえ、字(小字)名ではあまりに範囲が狭く、実際採用例も路面電車(馬車鉄道)レベルでごくごくわずかに見られる程度。加えて「子ノ神下」というのは、さすがに当時でも躊躇したようである。しかもこの地は、大崎町の中心で町役場などもあったことから、ここを大崎駅とすべきと言う地元の強い声(だからあのとき大崎でなく居木橋にしておけば…というような)もあったが、国営化されたことで御上と喧嘩するわけにもいかず、結局、隣接字名である五反田が採用された。実際の字五反田の地には鉄道院の官舎が建てられ、五反田官舎を名乗ったが、これは駅名から採ったのか、それとも字名から採ったのか…。また、余談となるが、池上電気鉄道(東急池上線)の五反田駅は、字五反田の地につくられている。
以上、いずれも大字名ないし字名が当地ないし隣接地から採用されたことが確認できる。隣接地の場合は、どちらも先行して使用されていたためやむを得ず、という形である。高田馬場駅と五反田駅は、それぞれ両極端な駅名採用となったが、地域特性(有力者の意見)というものを考慮したことは疑いない。
さて、その3まで進めてきて今さらの注意点(苦笑)。JR山手線というと、一般的には東京を一周する環状運転のあれを指すと思われるだろうが、実際の山手線は「田端~品川」間のみであり、歴史的経緯で赤羽線(これも多くの人が埼京線の一部としか思っていないだろうが)「赤羽~池袋」間を併せて採り上げている。なので、「田端~品川」間は今シリーズでは採り上げないのでご容赦願いたい。
では話を戻して、大正時代の山手線に話を進める。その前に明治までに開業した駅を確認しておこう。
今日の赤羽線部分
赤羽
十条
板橋
今日の山手線部分
(田端)
駒込
巣鴨
大塚
池袋
目白
高田馬場
新宿
代々木
原宿
渋谷
恵比寿
目黒
五反田
大崎
(品川)
ある程度、東京の地理に明るい方でも、現在の駅と比べて何が足りないかは気付きにくい。1914年(大正3年)、高田馬場駅~新宿駅間に新大久保駅が開業するが、これですべて出揃う格好になる。山手線はまだ環状運転どころか、いわゆる「の」の字運転すらしていない時代に駅の構成は完成していたのである。
- 新大久保(東京府豊多摩郡大久保町大字百人町字仲通)
新大久保駅は「新」と冠称した最初の駅名(新宿等は除く。「新」+「既存駅名」)であるが、中央線大久保駅の所在地も新大久保駅とまったく同じ「東京府豊多摩郡大久保町大字百人町字仲通」であるので、町村名からの採用は不可能。大字(百人町。大正元年に町制施行する前までは大字大久保百人町だった)名から採用しなかったのは、調査し切れていないが、それ相応の理由はあったと見る。
山手線の駅名について考察してみた。こうして眺めてみると駅名改称が一度もないことに気付くが、それだけ定着しているという見方が適当だろう。むしろ、駅名に引っ張られる形で町名変更が成された数を慮れば、その影響力は計り知れないという方がいいだろうか。駅名については、基本は当該町村名が採用されているが、ただ単に当該地としてはおらず、周辺に著名なものがあればそれが採用されるなど、時代背景によって様々な形が見える。中でも、高田馬場駅については明治末期という時代でなければ、別名が採用された可能性が高いだろう。
といったところで、今回はここまで。
高田馬場については、赤穂義士のインパクトがかなり強かったのではないでしょうか。鉄道唱歌の泉岳寺の松ではありませんが、名は千代の末までもと言うことでしょうか。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/05/13 00:06
訂正
名は千載の後までもが正しいのでここに訂正します。
申し訳ありませんでした。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/05/13 00:09
コメントありがとうございます。
> 高田馬場については、赤穂義士のインパクトがかなり強かったのではないでしょうか。
仰せの通りかと。明治期においても庶民文化の一つとして知られていた(古典落語にもありました)とはいえ、既に馬場などない時期によくぞネーミングしたとは思います。
投稿情報: XWIN II | 2013/05/14 07:42
XWIN II 様
日本鉄道の社長は殿様で、部下の多くも士族であったことが関係しているのかも知れませんが、吉良の殿様は領民にとって名君であったそうですので、たかが歌舞伎、されど歌舞伎で、何百年の長きにわたり世論をリードすることは空恐ろしいことですね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/05/15 11:25