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2013/05/05

コメント

目白と目黒は双方とも旧鎌倉街道に沿ったお不動さまがあったところで、駅の命名に当たって当時の重要なレジャーであった参拝との関連性に重きを置いたのでしょう。大崎町も目黒村も同じ荏原郡であることから、35区の感覚にとらわれてはならないと思います。

追伸
後日貨客分離が行われますが、東北/高崎線と東海道線を直結するルートとしての山手線の役割は大きかったと思います。開通当時の駅には埼京線ができるまで、貨物専用の側線があったことからも貨物取り扱いとして日通の支店がありました。

新東京大観(昭和7年)より 「目黒区」抜粋

「目黒の交通は文字は、玉川電鉄が北部を、東横電鉄は中部を、省線山ノ手線が東南を、外に東横バス、目黒自動車がある。目蒲電鉄は、名は目黒・蒲田電鉄だが、実際は目黒を通らず品川区の大崎を通っている。しかし碑衾を通るから、目黒区としてみれば「目黒・蒲田」の名もおかしくないだろう。また目黒川がある。目黒川の古名を品川といい、下流の品川はこれから起こった。

字は新仮名遣いにしてあります。
品川は、目黒川の古名だったというのは、初めて目にしました。

上の文章、さらに間違い発見しました。
「目黒の交通は文字は」→「目黒の交通は」
すみません! 訂正お願いいたします。 m(_ _)m

コメントありがとうございます。

> 大崎町も目黒村も同じ荏原郡であることから、35区の感覚にとらわれてはならないと思います。

当時は、市制町村制施行前で江戸期の村々がほぼそのまま継承されており、有力村とそうでない村の差は大きく、連合戸長役場が設けられたことを踏まえてもそのことは言えるかと見ます。

> 品川は、目黒川の古名だったというのは、初めて目にしました。

かなり昔から伝えられており、著名です。新編武蔵風土記稿にも掲載されています。

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