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2013/01/18

コメント

千束地区と戦後の大田区の経緯興味深く拝読致しました。懇切丁寧な説明有り難う御座います。戦後荏原区の名前が消えた時はいささかショックでしたが、城南地区では由緒ある地名ですのでいささか残念です。社会事務所や医師会などは未だに荏原や大森の名前が残っているのでそれだけ地域の人々の歴史や経緯に思い入れがあるのでしょう。荏原などは品川と合併した直後の旧荏原区役所の看板には品川区荏原庁の看板がかけられていたことを思い出しましたが、これもメンツを失った荏原区役所の職員のささやかな抵抗の意思表示でしょうか。

銀座交差点の写真の中で市電のポールが2本上がっているのが見えますが。昭和7年当時はまだプラマイを架空線から取り込んでいると言うことで、水道局の発言権がそれだれ強かったのでしょうか。水道局に努めていた私の知人の言葉によれば鉄道の変電所が近くにある中原街道と環状6号線が交差する大崎広小路や青梅街道の中央線と交差する所は水道管の腐食が激しかったそうです。

直接の発言権ではないでしょうし、正確なところはわかりませんけれど、
水道局OBの知人は、「東京都内随一の土地持ちは、東京都水道局」と言っています
確かに、土地と言って適切かどうかはともかく、貯水池などは水道局のものなのでしょう。水源の森林というのもありそうですね。
そのほかにも、
「そういうことは主張しないけれど、井の頭通りは、水道局のもので、道路に貸している」
玉川上水など緑道になっているものもありますから、それらも幅員×道路延長で考えると相当のものですね。

それでなんとなくわかりました。私が通った中学も、池上にありながら大森10中、久が原にあるのも大森7中。それとも、最初は大森区立だったのかしら。でも合併したあと大田10中や大田7中にしなかったのですね。

東京の反面の写真の中で多分三十間堀ではないかと思いますが、艀かタグボートのようなものが写っており、ベニスのように建物の地下に桟橋が設けられていますので、艀による運送がまだ盛んであったのだと想像されます。まだ道路が整備されていない時代は横浜で卸したり横浜で積み込まれる荷物の輸送は艀で京浜運河を行き来したようです。究極の省エネですね。

訂正
東京の反面の写真の三十間堀は誤りです。ここに訂正します。

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