なかなか興味深い本が出ていたので、早速購入した。タイトルにもふれたように書名は「東京高級住宅地探訪」(著:三浦展、発行:晶文社)である。
この手の本で著名なのは鹿島出版会から出ている「郊外住宅地の系譜」だが、これは学術的な色彩を帯び、中には論文そのものというくらいに精緻なものもあるが、本書はエッセイに近い、いや私的にはエッセイそのものといった印象で、実際本文中にも「~らしい」「~あるそうだ」「~だろう」「~かも知れない」など曖昧で語尾を濁す表現が多い。とはいえ、エッセイであればそれも表現手法の一つであるから、それはそれで何の問題もない。
本書に着目したのは、表紙にも取上げられているように「田園都市」、特に田園都市株式会社の分譲地に関していくつか書かれていることにある。目次を以下に示せば、
- 序 田園都市の百年と高級住宅地
- 第一章 田園調布 高級住宅地の代名詞
- 第二章 成城 閑静さと自由さと
- 第三章 山王 別荘地から住宅地へ
- 第四章 洗足、上池台、雪ヶ谷 池上本門寺を望む高台
- 第五章 奥沢、等々力、上野毛 東京都は思えぬ自然と豪邸
- 第六章 桜新町、松陰神社、経堂、上北沢 世田谷の中心部を歩く
- 第七章 荻窪 歴史が動いた町
- 第八章 常盤台 軍人がいなかった住宅地
とあるように、序、第一章、第四章、第五章(一部)と全体の3割ほどを占めている。そういうわけで、エッセイ風の本書を読み進めていくと、やはり気になるのは著者の誤り(勘違い)である。曖昧で語尾を濁すところは仕方がないというか、まぁそういうものだろうと言えなくもないが、断定調に「である」を使った箇所はやはり気になってしまう。そんなわけで、主に第四章を中心に気になった点について列挙していこう。
本書84ページ
「洗足という地名は、目黒区だが、田園都市としての洗足には、目黒区洗足二丁目、品川区小山七丁目、同・旗の台六丁目の一部が含まれる。」
う~ん、やはり無視されてしまったかと思わざるを得ない(笑)。洗足田園都市にはもう一つ、大田区北千束一・二丁目が含まれている。現在の環七通りと目黒区と大田区の区界に挟まれたエリアにあたるが、様々な文献を見てもここが忘れ去られることが多く、著者が参考文献から引用したからか、そういう風に受け止めたかは判断尽きかねるが、まぁそういうことである。また、コメントでご指摘いただいたように品川区荏原七丁目も一部含まれている。よって、正しくは「洗足という地名は、目黒区だが、田園都市としての洗足には、目黒区洗足二丁目、品川区小山七丁目、同・旗の台六丁目、同・荏原七丁目及び大田区北千束一・二丁目の一部が含まれる。」となる。洗足田園都市の分譲エリアと現在の住居表示を比較できるように、以下に図を掲載しておく。
ただ、こうしてしまうと次行以降の展開に難を来すので、あえて外したと言えなくもないが。
本書86~87ページ
「こうした渋沢の構想をどこかで聞きつけたのか、一九一五年三月、東京府下荏原郡の地主有志数名が、王子飛鳥山の渋沢邸を訪ね、荏原郡一円の開発計画を説明して、その実施を渋沢に依頼したという。そういうこともあったので、渋沢としては田園都市の実現に当たって田園調布にも優先する形で洗足の開発を進めたのかも知れない。」
最初の一文は「街づくり五十年」(東急不動産)からの引用とし、「こうした渋沢の構想」とは田園都市設立趣意書より以前のものを指す。ここには、なぜ荏原郡の地主が渋沢邸を訪れたのかが曖昧になっているが、実はここが最も重要なところで、畑弥右衛門という渋沢と荏原郡有志(皆、村長クラス)を結びつけた存在を忘れてはならない。この人物がなければ、おそらく田園都市がこのエリアに展開したかどうかすらはっきりしなかった。また、開発計画といっても具体性に乏しく、畑弥右衛門の青写真(大風呂敷)を文章で示したに過ぎない。とはいえ、これをきっかけに有力地主と結びついた意義は大きく、田園都市計画が具体化するに従って事業用地買収に多大な寄与をしたことは疑いのない事実である。
また、それ以上の事実誤認(推測誤り)は「渋沢としては田園都市の実現に当たって田園調布にも優先する形で洗足の開発を進めたのかも知れない」という部分で、田園調布(多摩川台住宅地)はそもそも当初開発エリアに含まれておらず(その証拠として、渋沢邸を訪れた有志に荏原郡調布村の関係者は含まれていない)、荏原郡玉川村の対象地域も今日の玉川田園調布エリアではなく、奥沢・等々力エリアであった。要するに、田園調布は当初の構想の対象外なのである。今では田園調布と洗足は比較対象にもならないが、洗足エリアでの用地買収が芳しくなかったために、買収エリアを玉川村の先にあたる調布村に伸ばし、ここでの用地買収に見込みをつけたことで(このあたりは田園都市の「土地買収要項」より自明)、田園都市株式会社傘下の荏原電気鉄道の予定路線を玉川村方向から調布村方向へと変更した。著者は、このあたりの経緯をご存じないことに加え、今日の状況下で事実誤認したのではないかと推定する。
本書87ページ
「ちなみに大岡山も洗足、田園調布とともに、田園都市株式会社が開発した住宅地だが本書では取り上げない。」
これは、いわゆる補足説明部分(かっこ書き)だが、大岡山が東工大の移転先という文を受ける形となっている。確かに、田園都市が計画した大岡山分譲地はあったのだが、この分譲地はほとんどすべてが東工大(当時は東京高等工業学校)の移転用地になったことで、田園都市としての大岡山分譲地は消滅した。その後、昭和10年代前半に大岡山駅北側の東工大用地を駅南側の目黒蒲田電鉄買収地と等価交換した際に、目黒蒲田電鉄が大岡山分譲地(現在の大田区北千束一丁目36, 37, 39, 40, 42番あたり)として「再」分譲した。以上の経緯からわかるように、田園都市は大岡山分譲地を開発しておらず、わずか3万平米に満たない5ブロックほどのエリアでしかない目黒蒲田電鉄の大岡山分譲地とを、著者が混同している可能性を指摘しておく。
──と、簡単に終わるかと思ったら結構指摘するものが多く、自分でも予想外の次回に続く。
興味深い本のご紹介ありがとうございます。私も読んでみたくなりました。
それから、大岡山分譲地平面図についての解説もありがとうございました。
あの平面図について何でこだわったかというと、かなり以前に、そちらに(私からではないのですが)お送りした昭和初期の、正面遠方に学校のようなものが見える写真について、その場所が大岡山分譲地であるという可能性もあるのかなと思ったことから出た話なのですが、今回のお話で、「多分違う」のだと思いました。
いろいろとご示唆いただき、感謝申し上げます。
投稿情報: りっこ | 2012/11/23 15:57
目蒲電鉄のパンフレットには環七の西側の北千束に至る迄の道路の両側も分譲地として掲載されていますが、行政区分の違いは道路の舗装化でも大森区の部分は大幅に遅れたので多分無視されたのでしょう。
大森山王は自動車がすれ違いできないほど道路が狭い同地区から洗足に移転した友人が数名居りますので昭和初期に既に衰退期に入っていたのでしょう。
成城学園地区は東映の撮影所も近く住民の年齢層が若いせいか、田園調布と比較して若さと活気があるような気がしますが、あくまでもこれは私の個人的な印象です。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/11/23 17:01
荏原7丁目の(ごく)一部もお忘れなく。。。
投稿情報: はひ | 2012/11/23 22:59
はひ様
目蒲電鉄田園都市部の地図によると荏原7丁目の19の大部分が含まれてるようですが詳しいことは分かりません。
荏原と小山の町境が江戸見坂通りに沿っておりますが同地図とは異なるようです。延山通りはこのへんから小学校に向けて下り坂になっており、うさぎ幼稚園の所は空き地であった様に記憶しておりますが、70年以上も前のことで記憶は定かでありません。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/11/24 15:58
皆様、コメントありがとうございます。
ご指摘いただいた点を含め、追記をしておきました。荏原七丁目もしっかり加え、位置関係も確認できるよう、以前作成した図に町丁界や町丁名も付記しました。これで大丈夫でしょう(笑)。
投稿情報: XWIN II | 2012/11/24 18:38
XWIN様
荏原7丁目は完全に把握できました。有り難う御座います。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/11/24 22:18
追伸
行政の合理化の圧力に対抗して第二期分譲地の領域に対応する町会がそのまま維持されているので、洗足会の古いメンバーでよほど政治力のある方がおられるようですね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/11/25 14:34
木造院電車両マニア様
ありがとうございます。荏原7丁目20のところから、昭和大の方に向かう道路の道幅が突然狭まるところがありますので、そこが開発の境ではないかと考えております。
XWIN様
非常に分かりやすくなりました。私が見ている道幅の変化点とバッチリあっております。
投稿情報: はひ | 2012/11/25 21:10
木造院電車両マニア様
成城学園そばにあるのは東映ではなく東宝です。大学卒業まで池上線千鳥町五反田を利用していました。もちろんお目当ては、高校時代は3300の3M編成、そのあとは3450と3489、3499が来るのをひたすら待っていましたが。
いまは小田急線沿線なので。。。
投稿情報: デハ3300 | 2012/12/09 16:38
デハ3300様
東映と東宝を間違えるようではと情けない限りです。
3300型は私にとって思い出が詰まった車輛です。小学校に上がる前の院電そのものの木造の時代と中学に通ったときの鋼体化され、全く新車に様変わりした100型の新鮮さを忘れることができません。その後池上線で通勤しておりましたが、息子が台車の先端に切り欠けのあるものとないものの2種類あると言われて、調べて見ましたが旧目蒲に所属していた車輛の台車が初期の国産台車の明治44年形であることが分かりました。昇圧後は姿を消したようですが、吊り掛け式でも非常に乗り心地が良かったことが印象に残っています。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/01/13 11:55
木造院電車両マニア様
いえいえなんだか揚げ足取りのようで申し訳ない。3300はいまでも懐かしいです。高校生の頃(昭和47年4月から昭和50年3月まで、千鳥町-武蔵小山間を利用していました。もうかなりお年を召していて、中間のM車のパンタが上がらず、千鳥町から久が原にかけての連続登り勾配を唸るような音で登っていったのを覚えています。確か、駅からでは起動できず、一旦池上の方に200M程バックして、勢いをつけて登っていました。また重連総括制御が故障して、運転士3人だったこともあります。感覚的には、昔の車両の方が低速時のブレーキはよく聞いたと思います。池上線の場合、ホームへの進入速度は40Km/hでした。今はもっとゆっくり入りますね。小学生の頃は速度計もありませんでしたが、それでも定時運転はできたのですね。
投稿情報: デハ3300 | 2013/01/18 20:45
デハ3300様
コメント興味深く拝読させて頂きました。戦争が終わって2年程経っていてもその傷跡がそんなに残っていたとは知りませんでした。久が原への勾配は22,5パーミルですが、立体交差前の長原と旗の台の間の勾配は33.33パーミルでしたのでさぞかし苦労したでしょう。ブレーキに関しては現在は発電制動ですので初めからブレーキが利く様になっているせいもあるかもしれません。ただ発電制動になってから旗の台駅の線路の赤錆の絨毯が無くなり清潔感が増し、鉄の塵が目に入って眼科で除去してもらう苦労も無くなりましたね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/01/19 15:18
デハ3300様
追伸
間違っていましたら平にご容赦願いたいのですが、武蔵小山は小山台高校でしょうか。私は昭和14年に旧荏原区の小学校を卒業しましたが、当時トップクラスの生徒のみが城南地区の名門公立中学の府立八中に進学できました。震災後の防火建築である鉄筋コンクリートの校舎であった様に記憶して居ます。駅と学校の間に玉川の砂利を荷下ろしするための引き込み線がありました。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/01/19 17:01
ばれたか。私は、大田区の中学を卒業して、昭和48年4月から昭和50年3月まで、小山台高校に通っていました。中学でトップクラスの人は、日比谷(旧府立中)その次が、小山台だったような気がしますが、私は3年間小山台低空飛行団の隊長です。確かに有名人が先輩に多いのは事実です。有名なところでは斎藤茂吉長男、斎藤茂太氏、菅直人氏、映画監督の山田洋次氏、キャノン会長の御手洗氏、現新日鉄社長の宗岡氏など、ただし、私たちの年代まで名門校?らしきところはありましたが、今は普通の高校ですね。校舎は仰せのとおり、昭和2年竣工の柱が1m角の重厚な作りでした。今は、普通のちゃちな作りのようですね。そして不思議なことに、正門が武蔵小山駅と反対側にあり、古い先生から昭和のはじめ、地下鉄が通るという計画が有り、正門が裏側になったというホラ話を聞きました。引き込み線の話は知りませんでした。それから、私が通っていたのは1947年ではなく昭和47年4月からです。私、1956年生まれです。ですから木造院電マニア様のお子様と同年代かもしれませんね。本来は廃線マニアで、東急ですと、新奥沢線、目蒲線蒲田付近の付替え、砧線など歩きました。砧線以外は今は痕跡がないですね。でも国土地理院のWebに、戦前の航空写真が有りその内の一つに新奥沢線の路盤がかすかに写っているものもあります。あのサイトも6年ぐらい前はダウンロード無料だったのですがいまは有料ですね。閲覧のみは無料ですが。お暇なときに見てください。小田急と井の頭線の代田連絡線も、米軍撮影の1947年か1948年の写真に鮮明に写っています。もし上記の廃線関係で何か情報をお持ちでしたら是非ご教授下さい。陸地測量部発行の2万5千分の1の地形図は昭和14年発行のものが東京区部(35区分)全部あります。まだ戦時改描される前で面白いです。
[email protected]もご利用ください。
投稿情報: デハ3300 | 2013/01/20 16:43
木造院電マニアさま
日比谷高校(旧制府立1中)でした。申し訳ない。
投稿情報: デハ3300 | 2013/01/20 16:45
木造院電マニアさま
度々訂正で申し訳ないです。高校に通っていたのは、昭和47年4月から昭和50年3月目で、大学はそのあと4年間千鳥町ー五反田(本当は蒲田周りの方が早く着きますが、池上線に長く乗りたいのでこの経路)です。3450も好きな車両ですが、1M2Tで五反田から雪谷までだましだまし走っていたこともありました。さすがに雪が谷大塚で車両交換でしたが。その頃は長原駅は地下駅になり、あの急勾配はありませんでした。
投稿情報: デハ3300 | 2013/01/20 17:10
確かではありませんが小山台高校の正門は武蔵小山系の裏側にあったような記憶があります。玉川の砂利も昭和10年頃には既に枯渇し、武蔵小山だけではなく大井町線だけを取り上げて現在の戸越公園、中延(特に側線が2本あったように記憶しておりますが立体化で拡張した後もまだ用地が残っていて現在駐輪場になっています)、荏原町にあった側線は撤去されました。卒業生に著名人が多いのもこの学校の特徴でした。
3450は多少の差はありますがほぼ同形の車輛が50台も短期間に導入されましたが、小生のとって510型と呼ばれた方がピンと来ます。越境入学者たちが定期券でこの新型車輛に乗れるのが羨ましくてたまらなかったこと憶えています。昔は片側運転台でしたので目黒で先頭の座席を取るために走ったこともなつかしく思い出されます。MTやMTMが基本ですので坂での自動加速は困難を極めたでしょう。
廃線の奥沢線は小学校に上がる前に中原街道を横断する小型電車を見たことがあります。痕跡と言えば諏訪分の道路の出っ張りぐらいでしょうか。道塚駅は中学校の校長が住んでいましたので居りたことがあります。今日でも矢口の渡しを出てすぐのところに少し右に敷地が残り信号機のリレーボックスのようなものが於いてありますが、終戦直後奇跡的に焼寺のこった小林町に住んでいた友人のところに行ったとき、旧線を焼け野の原を走る目蒲線を目撃したことを憶えています。今でも道路と私道が残っています。ユザワヤ付近は全く痕跡も残っていませんね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/01/20 21:23
木造院電マニアさま
早速、蒲田に行ってきます。確かにユザワヤのあたりは、よくわかりませんね。小山台高校の正門は、昔は、駅から見ると裏側です。3450は池上線と、開通したばかりの田園都市線でよく乗りました。昭和41年当時はたしか鷺沼以遠は2両のオールM編成でした。後に聞いたらモーターが94kwで1M1Tでは出力不足だったらしいです。私の世代ですと、3300、戦後のどさくさに作ったらしい3600が印象に残っています。目蒲線の3600は大岡山から奥沢にかけて壊れそうな音を立てて80Km/hで駆け下りていきました。
投稿情報: デハ3300 | 2013/01/21 20:45
Wikipediaの洗足田園都市のページの概要の対象エリアの記述を厳密化するために、
貴兄のこのページの内容の反映と出展としての補足を追記させて頂きました。
投稿情報: 未知との遭遇 | 2019/03/22 00:45