前回は思いがけず、次回に続くとしてしまったので、今回はその続き。引き続き、「東京高級住宅地探訪」の気付いた点についてあれこれ語っていこう。
本書87ページ
「洗足の分譲規模は、五七四区画、二七万九千平米。だから、一区画平均四八六平米。もちろんこれは道路なども含んでいるので、それを差し引くとおそらく一区画平均三三〇平米=百坪ほどであったと思われる。」
ここにいう「五七四区画、二七万九千平米」は、おそらく「郊外住宅地の系譜」からの引用と思われるが、なかなかこの数字の定義が難しい。前回、洗足田園都市の分譲エリアについて図(航空写真ベース)で示したところだが、洗足分譲地とされるのは大きく以下の4つに分けることができる。
- 第一期分譲地(田園都市)
- 第二期分譲地(田園都市)
- 東洗足分譲地(田園都市)
- 北千束分譲地(目黒蒲田電鉄)
第一期については、前回の図でも示したように洗足駅を中心とした洗足田園都市最大のエリアを持ち、「東京横浜電鉄沿革史」及び「東京急行電鉄50年史」に記されているように、販売面積55,000坪(185,000平米)とされている。第二期については、これも前回の図で示したように第一期の南側に位置し、「東京横浜電鉄沿革史」に販売面積3,500坪と記されている(「東京急行電鉄50年史」には誤って多摩川台11,550平米と記載。まぁ「東京急行電鉄50年史」は軽く見積もって誤植含めた誤りは200箇所以上あるのでしかたがないが…)。そして東洗足分譲地は、第二期のさらに南側で前回の図で薄赤く示したところ。最後の北千束分譲地は、2か所に分散し、一つ目は前回の図で「北千束一丁目」とあるうち「千束」と字が書かれたあたり(ちょっと重ね方を間違えてしまった)。二つ目が、同じく前回の図で北千束駅の東側付近で薄紫色で示したところ。これらをすべて合わせて574区画、279,000平米としていると思われる。
だが、悩ましいのは、第一期分譲において当初用意されたのは384区画なのだが、一人で複数購入する者もあれば、売れないものは田園都市自身が分割して再分譲したもの。さらに第一期分譲地内にあった田園都市株式会社本社の敷地も、昭和に入って建物が撤去された後、細かく商店街用地として分譲されている。その上、小学校用地として保留されていた土地、隣接する耕地整理組合との調整により区画が再度変更された土地など、田園都市第一号分譲地だけあって、かなり紆余曲折が見られる(この反省が第二号の多摩川台住宅地=田園調布に活かされているのは言うまでもない)。要するに、いつの時点でという定義をしておかないと、特に区画数については特定しにくいというわけである。よって、著者がいうように、単純な割り算でどうのこうの言えるようなものではない、となるわけだ。なお、私的には洗足田園都市とは第一期と第二期を指し、東洗足や北千束は含めない方がいいのではないかと考えている。
本書92ページ
「分譲当初からある洗足会館も最近建て替わった。」
洗足会館は、当Blog記事「洗足会館、竣功時の写真」に示したように、1931年(昭和6年)の竣功である。洗足住宅地が分譲開始(図面販売)したのが1922年(大正11年)6月で、田園都市株式会社の本社が移転してきたのはその翌年にあたり、関東大震災が起こった頃までには40戸程度ができていたので、洗足会館を分譲当初というには厳しいと感ずる。90年の歴史からすれば、たったの9年ではあるが、9年も経っていながら当初からとは言いにくいだろう。
本書107ページ
「創業一九三二年の老舗。洗足田園都市とともにあった老舗。」
ロンシェールさん自らが記す「ロンシェールの歩み」をご覧いただければわかるように、1932年(昭和7年)にオープンしたのは間違いないが、洗足ではなく東洗足である。当Blogにそれなりの期間お付き合いいただいている方々には言わずもがなだが、東洗足は現在の旗の台にあたり、洗足とは別である。現在地に移転したのは戦後の1947年(昭和22年)であり、ここから通算すれば65年と結構な長さではあるが、戦後は既に洗足田園都市と呼ぶには相応しくなく、「洗足田園都市とともにあった」とはならないだろう。
以上で本書の第四章についてはおしまい。他にもいくつかあるが、長くなってしまったので一つだけ特に気になったものを以下にあげよう。
本書76ページ
「山王(旧・入新井村)では、現・大田区内でいち早く、一九一六年から二二年にかけて耕地整理が行われ、住宅地化への準備を進めている。こうして入新井村(山王)の人口は、一六年には一〇四四二人だったのが、二一年には二三四八九人、二六年には三七四九二人、三一年には四九七三〇人と、順調に増えていくことになった。」
著者は山王を歩いたことがあるはずだが、道路が曲がりくねって狭いと感じなかったのだろうか。そう、著者は致命的な勘違いをしているのである。まず、それを指摘する前に、大田区山王の地名の歴史(明治以降)を簡単に振り返ってみよう。
山王とは、著者も本書に記すように日枝神社に由来している。明治初期、地租改正によって荏原郡新井宿村に山王及び山王下という字名が誕生した。新井宿村は明治22年(1889年)に隣接する不入斗村と合併して入新井村となり、両村はそれぞれ新村の大字となった。これにより、荏原郡入新井村大字新井宿の字(小字)として山王及び山王下が継承され、これは昭和7年(1932年)東京市に合併されるまで続く。では、ここで明治末期の地図で確認してみよう。
明治末期の大森駅周辺。「山王」と見えるのは、現在の大田区山王一丁目あたりで、実際この一帯が字山王で、線路を挟んで東側(右側)に飛び出た部分(現在は区界変更でほとんどが品川区になっている)が字山王下である。日枝神社を山王と称呼するのは都心にある日枝神社も同様で、東京メトロ南北線の溜池山王駅の山王も同様である。
ごくごく狭いエリアだった「山王」だが、明治末期の地図からも明らかなように、このあたりは別荘地化が早く進み、計画的な道路も用意されないまま宅地化が進んでいる。これは今も基本的に変わることはない(建築基準法上4メートル道路の接道が求められているため、道は若干広がってはいるが)。別荘地と「山王」という名称は受けがよかったため、東京市に合併された際、「山王」エリアは大きく拡大した。
- 山王一丁目…山王下、山王、源蔵原
- 山王二丁目…道免、於伊勢原
東京市大森区に属する山王一丁目及び二丁目が成立し、従来「山王」だったエリアは一丁目の半分ほどで、残りはすべて「山王」とは無縁の隣接地だった。
そして戦後しばらくして、住居表示制度の荒波が訪れ、「山王」はさらに拡大する。
- 山王一丁目…ほとんど旧山王一丁目
- 山王二丁目…ほとんど新井宿一丁目及び旧山王二丁目
- 山王三丁目…新井宿二丁目・同三丁目・同六丁目の一部、
- 山王四丁目…新井宿二丁目・同三丁目・馬込町東二丁目の一部。
これが現在、「山王」を名乗るところだが(細かい部分を除く)、その多くが環七通り、池上通り、ジャーマン通り(かつての言い方では改正道路)に囲まれたエリアであるものの、大半が「山王」とは無縁だとわかるだろう。そして、新井宿一丁目が山王二丁目に組み込まれたことで、ようやく天祖神社の住所が「山王」となった。
以上、簡単に「山王」の流れを追ってみたが、本書の著者は「山王」を現在の住居表示における山王一丁目~四丁目にあてているようで、もうこの時点からして「わかってないな…(嘆息)」であるのだが、今回指摘するのはこの点ではない。もう一度、引用部分で大事な箇所を示せば、
「山王(旧・入新井村)では、現・大田区内でいち早く、一九一六年から二二年にかけて耕地整理が行われ、住宅地化への準備を進めている。」
とあり、ここにいう「山王」とは何を指すか、である。明治22年(1889年)成立した入新井村は、大雑把に今日の大田区山王一丁目~四丁目、中央一丁目~四丁目・六丁目・七丁目、大森北一丁目~五丁目、大森西一丁目及び四丁目の一部などで構成されており、東京市合併前までは入新井村の二つの大字のうちの一つ、大字新井宿のうち2つの小字でしかない(位置的に「山王下」は含めなくていいので1小字のみと言っていいだろう)。明治末期の地図で確認したように小字の「山王」は、既に別荘地化しており、耕地整理を実施する余地もなく、また現在まで道路パターンもほとんど変わらずに来ている。
では、入新井村のうち、現在の山王一丁目~四丁目に相当するエリアを指すのだろうか(東京市合併後の山王一丁目~二丁目はこれを考察すれば不用)。上記のとおり、住居表示における「山王」は旧入新井村大字新井宿の半分程度と旧馬込村のごく一部を占めるが、このエリアで耕地整理を行ったのは、山王四丁目の環七通りに面した部分で、住居表示前は馬込町東二丁目にあたる。ここは、谷中耕地整理組合が施行した箇所であり、大田区内でいち早く行ったものではない。
著者が言わんとするのは、入新井第三耕地整理組合であり、確かにこれは1916年(大正5年)に組合を設立し耕地整理事業を行ったところだが、事業用地はまったく「山王」とは関係がなく、現在の中央一丁目~七丁目あたりである。入新井村大字新井宿のうち、おおよそ南半分弱に相当する。大森駅から離れていたにもかかわらず、住宅地化が大きく進んだエリアであった。
ここまで見てくれば、著者の混同ぶりがよくわかるだろう。「山王」エリアの特定もできないばかりか、耕地整理についても入新井村と山王を同一視しており、山王では耕地整理が行われていない…いや狭い曲がりくねった道路が多いということから、ここが未施行地だと判断すらできないとなるだろう。
といったところで、今回はここまで。本書については、あまりにもこういうレベルのものが多いので(たかがエッセイ風情にここまでいう方がおかしいが)、きりがないため今回で終了。
大正11年の時刻表を見ると、すでに京浜間に電車運転されているにもかかわらず一部の列車が大森に停車していますので、山王の住民の中に政界の有力者が居た証拠でしょうか。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/11/24 22:26