今回は前回記事に頂戴したコメントを受けて、記事にしてみた次第。時間がないので簡潔に。
1945年(昭和20年)6月に、東京急行電鉄(いわゆる大東急)によって急遽敷設された路線。東急井の頭線(現 京王井の頭線)代田二丁目駅(現 新代田駅)と東急小田原線(現 小田急小田原線)世田ヶ谷中原駅(現 世田谷代田駅。1946年8月に現駅名に改称)間を結ぶ連絡線で、戦時中の突貫路線の一つ。ただし、東急多摩川線の矢口渡駅~蒲田駅間と異なり、1953年までに完全に撤去された。
そもそもこの路線は、東急井の頭線永福町検車区が1945年5月に罹災した際、ほとんどの車輌が使用できなくなったことに加え、歴史的に帝都電鉄出自のため、他線との接続が全くなかったことで、井の頭線運行確保のために車輌を他線から移動(異動)させるために作られた。このため、土地は事実上強制収用扱いで、のちに返還要請が起こり、これが当連絡線の廃止理由の大きなものである。
1947年の航空写真。ちょっとわかりにくいので、これをベースに簡単な絵解きを追加。
図中赤く示したのが連絡線。ちょうど空襲によって家屋などが失われたところに建設されたことがわかる。以下にゼンリンの電子地図も合わせて示す。
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といったところで簡単にここまで。
XWIN II様
丁寧なご説明有り難う御座います。レーダーにより米軍機が捕捉された時点で発令された警戒警報後、直ちに車庫内の電車を路線内に分散疎開させる規定となっており、雪谷や奥沢に入庫していた電車が逐次間隔を置いて線路上に分散される電車の音を聞いたのを記憶しておりますが、永福町でこれを行わなかったことを不思議に思いました。もっとも当時の永福町は全くの田舎でしたので空襲を受けないとたかをくくって居たのかも知れません。ただ永福町車庫の形態がかまぼこのような飛行機の格納庫と酷似していたので有名でしたので、米軍機が誤認したのかもしれません。何れにしても車両不足のために戦後もしばらくの間殺人的混雑に悩まされたことを思い出しました。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/11/19 12:40
追伸
この線で印象に残っているのは戦前の浜田山駅近くの三井系の企業の福利厚生施設です。その優雅さは庶民の羨望の的でしたが、近年国際競争特に亜細亜との激化でかなり変貌した様に聞きましたが詳しいことは知りません。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/11/19 22:11
貴重なコメントありがとうございます。
浜田山の福利厚生施設は、今では三井不動産分譲のマンションとなっています。
投稿情報: XWIN II | 2012/11/21 07:13