今から90年前の1922年(大正11年)10月6日、東京府荏原郡蒲田村(現 東京都大田区)の鉄道省京浜線 蒲田駅から同府同郡池上村(現 東京都大田区)の池上駅までの約1.8kmの鉄道(単線)が池上電気鉄道によって開業した。
官報(大正11年10月10日発行より)
このことを記念して、東急電鉄は池上線90周年といっているわけだが、長い間の冷遇時代を慮れば(何せ新車が60年以上──池上電気鉄道時代以来、1993年に至るまでの間──にわたって配属されなかった)、90周年を銘打つだけの余裕というか柵がなくなってきたともいえるだろう。なお、官報「地方鉄道運輸開始」記事によれば、10月4日に認可し、同月6日に営業開始の旨届出があったとなっている。駅は、池上(いけがみ)、蓮沼(はすぬま)、蒲田(かまた)の3駅。90年にわたって駅名は変わっていないことも確認できる。
さて、当blogでも池上電気鉄道に関しては、多くの記事として取上げてきているが、90周年を記念して開業に至るまでの概要を簡単に振り返っていきたい。
官報(大正2年4月11日発行より)
池上電気鉄道は株式会社としてではなく、池上電気鉄道株式会社の発起人として、1912年(大正元年)12月25日に東京府荏原郡大崎町(現 目黒駅付近)~同府同郡入新井村(現 大森駅付近)間の軽便鉄道敷設特許申請し、翌年4月8日に免許状が下付される(Wikipedia日本語記事はいい加減なものが多いと以前に書いたことがあるが、池上電気鉄道の項目には4月18日といい加減な記述がされている。ちなみに東急50年史は正しく4月8日としている)。当時の計画は、現在の五反田~蒲田間ではなく、目黒~大森間(どちらも現在の起終点の隣の駅)だった。大森駅西口あたりから池上道とほぼ平行して進み、現在の池上駅付近に到達し、そこから直角に北上して呑川とほぼ平行して進む。途中、洗足池あたりで東に向きを変え、田園都市株式会社の分譲地を避け、目黒不動の南側を通って目黒駅につながる。
文ではわかりにくいので、二年半ほど前に作図したものを掲示しておく。紫色点線が初期計画線で、紫色実線が現在の東急池上線。橙色の点線は大正初期の町村境を示す。田園都市事業予定地とあるのが、現在の目黒区洗足二丁目や品川区小山七丁目あたり。初期計画線のうち、真っ先に計画変更を伴ったのが、現在の池上駅付近から北上して洗足池東側まで達するルートで、これは荏原郡池上村の農家に大反対を受けたためである。ルートは呑川に面する水田などにあたり、鉄道敷設によって農業ができなくなるという危機感からであった。この大反対を受け、計画線は呑川ルートを避け、半円を描くような現在の池上~洗足池間とほぼ同様のルートに変更。結果、池上村中心部を貫く計画から、池上村と荏原郡調布村との村境を通るルートになって、大田区の鉄道過疎地帯の遠因の一つとなったのであった。
だが、大森駅~池上間はなかなか用地買収すらままならなかった。そのため、1918年(大正7年)10月30日に開業して10年ちょっとしか経っていない蒲田駅までの支線特許を申請。年も押し迫った年末の12月28日に免許状が下付される。
官報(大正8年1月7日発行より)
上段と二段目にまたがってしまっているので見にくいが、支線というよりも延長線として認可された。この申請の際、添付された図面の一部を掲示すると、
ご覧のとおり、現在の線形とは異なる(実際はさらに市街地を避けるようになっている)ものの、蒲田駅~池上間の最初の開業区間がはじめて登場するのである。だが、この延長線認可を受けてから池上~蒲田間の開業まで、まだ3年半以上を要する。たったこれだけの区間にどれほど時間をかけるんだ?と思うだろうが、池上電気鉄道の資金繰りはまったく滞っており、取締役の入れ替えや株主総会での増資決議は行われるものの、ただそれだけのことであり、1921年(大正10年)5月18日の池上~蒲田間の起工式まで、具体的な動きもないまま年月を浪費したのであった。この時間の浪費は、特許申請時の建設資金ではまったく賄えないこととなったのに加え、ライバルとなる田園都市・目黒蒲田電鉄の勃興を許した点で、既に敗北感が漂う。池上~蒲田駅間でさえ、この有様ということは、さらに市街地化の進んでいる大森駅~池上間など無理だということもわかるだろう。
では、起工式を行った後、工事はどうだったのか。答えは、まったく進んでいなかった。起工式を行った理由は工事を開始するということではなく、監督当局に対するポーズであったからである。一般的に許認可には、いついつまでに工事着手せよとか必ず期限が明記されるものだが、これを満たすために起工式を行ったに過ぎず、結局何も進まないまま、竣功期限の延期を繰り返すばかり。いよいよ、池上電気鉄道もペーパーカンパニーとして歴史を閉じるかと思われたとき、救世主が現れる。高柳淳之助その人である。
高柳は1922年(大正11年)4月20日に社長に就任すると、失効期限が迫っていた池上~蒲田駅間工事をさらに延長すべく延期願を提出する。
そして「速カニ全線ノ竣功ヲ期スルノ覚悟ニ有」として、大正11年(1922年)10月25日まで延長したいと訴えるのである。そして、ついに突貫工事の結果(加えて車輌は自社のものが間に合わず、駿遠電軌からの譲渡物)、10月6日の開業を迎えるのであった。池上本門寺のお会式まで一週間を切ったタイミングであり、絶好の開業時期と言えなくもないが、開業のおよそ1か月前にはライバル目黒蒲田電鉄が誕生し、時間を浪費したことがのちのちに池上電気鉄道の致命傷となる。
以上、簡単に池上電気鉄道の開業に至るまでの概要を簡単にふれてみた。時間が許せば、もっと詳しく書きたいのだが、言っても始まらないので今回はここまで。
──で、おまけ。「池上線開業90周年記念入場券」を購入した。
電車には詳しくないので何だが、モハ1とあるのは駿遠電軌から手に入れた間に合わせ車輌か。残る3450形や7200形は、どちらも乗車経験がある。今日は、このほかにも多数イヴェントが行われるようだ。として、追記はここまで。
朝、東急ファン友人より、記念入場券を購入するか?というメールがありました。内容がよく把握できないながら、一応友人に購入を依頼しておきましたが、ご紹介の記念入場券、とてもよいですね。かわいい♪
入手して飾るのが楽しみになりました。他にはどんなイヴェントがあったんでしょう。その様子を知りたくなりました。
投稿情報: りっこ | 2012/10/06 12:38
以前にも取り上げたことがある洗足田園都市の放射線の中央が池上電鉄の予定線と関連がありそうな気がしますね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/10/13 14:19