田園都市株式会社が、理想的住宅地案内と共に田園都市の全貌を地図上にあらわしたものが「田園都市全図」であるが、今回も前回に引き続き、その一部分をクローズアップして見ていきたい。ターゲットは、私が地域歴史研究のやや重点を置く一つとして位置づけている「調布田園都市(多摩川台住宅地)」である。
田園都市全図における多摩川台住宅地付近(部分)
前回採り上げた洗足住宅地は、時期的に耕地整理時と重なっていたこともあって、現状とあまり変わらなかった(デフォルメされているのでそれなりのずれはたくさんあるが)。一方、多摩川台住宅地は特徴的な半円状の街路パターンもなく、これが変わるのは洗足住宅地を分譲した後となる。いくつかの案が作られたうちの一つを以下に掲げる。
多摩川台住宅地計画図(上を北にするため原図を回転)
街路パターンが大きく変わっているが、分譲地の規模は田園都市全図のそれとそれほど変わっていないことが確認できる(田園都市全図のデフォルメ具合を考慮に入れて)。駅西口の放射状道路が何といっても目を惹くが、それ以外にも現在の宝来公園にあたる部分から南側の多摩川駅方向に続く、広大な公園も興味深い。この理想的住宅地として設計されたものも現実はそのとおりとならず、実際の分譲地は以下のとおりとなる。
目黒蒲田電鉄田園都市部発行の多摩川台住宅地平面図(上を北にするため原図を回転)
様々な理由によって、理想から現実への変更が見て取れる。決定的に異なるのは現在の世田谷区方面、当時の荏原郡玉川村方面で、特に奥沢駅付近は分譲地としてはなくなってしまっている。一部は電車の車庫等に用地が充てられてはいるが、多くは失われた。その理由は少なくとも二つあげることができる。一つは、玉川全円耕地整理組合の成立とそれに伴う田園都市株式会社の買収地組み込みで、現在の大田区側(当時の荏原郡調布村)では自由に街路パターンを設計できたのだが、世田谷区側は玉川全円耕地整理組合の意向で、街路パターンが周辺の耕地整理組合にあわせるように強要された。もう一つは、昭和2年(1927年)に告示された都市計画道路(現在の環八通り)が分譲地の北側を通過することによって、これに一部をあわせざるを得なくなったことがあげられる。もともと、世田谷区側は四角形の街区が多かったが、さらにそれが増えることとなった。
多摩川台住宅地(調布田園都市)は、洗足住宅地(洗足田園都市)よりも広い面積を確保できたことで、特徴的な街路パターンを設計したこと。そして東京市合併時には大森区と世田谷区に分割されることになったとはいえ、3分の2程度は大森区に残ったこと。しかも特徴的な街路パターンはほとんどが大森区側に入ったことで、コミュニティとしての形は維持することができた。これは洗足住宅地と決定的に異なるもので、洗足住宅地の場合、約半分が荏原区(現 品川区)、残る4分の3(全体では8分の3)ほどが目黒区、残るものが大森区(現 大田区)と三分割されてしまい、最も広いエリアを持つ荏原区側では第二期分を合わせれば、そこそこの広さを持ってはいたが、第一期と第二期との間に他の住宅地が入り込んで飛び地のようになっていたため、一連のコミュニティとして機能しにくかったと思われる。
他にも公園地は大きく縮小してしまったり、西側の街区では現在の多摩川台公園や浄水場用地として組み込まれたところもある。また、放射状の道路のうち、最も重要な中央の道路が未買収地との関係でまっすぐとならなかったところがあるなど、理想と現実との間の隔たりはいくつもあった。だが、総じて洗足住宅地と比べれば、それは大きな隔たりとはならなかったとなる。
といったところで、今回はここまで。
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